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{{Infobox 共和政ローマ
'''スプリウス・ カルウィリウス・マクシムス'''(Spurius Carvilius Maximus)は[[共和政ローマ]]の[[プレブス]](平民)出身の政治家・軍人。[[紀元前293年]]と[[紀元前272年]]に[[執政官]](コンスル)を努めたが、[[カルウィリウス氏族]]から出た最初の執政官である。
|人名=スプリウス・カルウィリウス・マクシムス<br>Sp. Carvilius C.f. C.n. Maximus
|出生=不明
|死没=不明
|出身階級=[[プレブス]]
|氏族名=[[カルウィリウス氏族]]
|官職=[[執政官]]<span style="font-size: smaller">(紀元前289年、紀元前272年)</span>
}}
 
'''スプリウス・ カルウィリウス・マクシムス'''(Spurius Carvilius Maximus)は[[紀元前3世紀]]初期の[[共和政ローマ]]の[[プレブス]](平民)出身の政治家・軍人。[[紀元前293年]]と[[紀元前272年]]に[[執政官]](コンスル)を努めたが、[[カルウィリウス氏族]]から出た最初の執政官である
 
==出自==
 
[[プレブス]](平民)である[[カルウィリウス氏族]]の出身。スプリウス・カルウィリウスは[[エクィテス]](騎士階級)の生まれで、カルウィリウス氏族から出た最初の執政官である。父も祖父も[[プラエノーメン]](第一名、個人名)はガイウス、紀元前234年と紀元前228年に執政官を努めた[[スプリウス・カルウィリウス・マクシムス・ルガ]]は息子る<ref>''[[:en:Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology|Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology]]'', [[:en:William Smith (lexicographer)|William Smith]], Editor</ref>。
 
==最初の執政官==
スプリウス・ カルウィリウスは[[エクィテス]](騎士階級)の生まれで、[[紀元前299年]]に[[アエディリス]](按察官)に就任した。6年後の紀元前293年に最初の執政官に就任。同僚執政官は[[パトリキ]](貴族)の[[ルキウス・パピリウス・クルソル (紀元前293年の執政官)|ルキウス・パピリウス・クルソル]]であった。両執政官共に[[サムニウム]]に対する戦争で大きな成功を収め、カルウィリウスはアミテルヌム([[:en:Amiternum|en]])、コミニウム、パルウミヌム、[[ヘルクラネウム]]を占領した。続いて、[[エトルリア]]に侵攻したが、これはファルスキ([[:en:Falisci|en]]、エトルリア同盟の一員)が講和条約を破ったためであった。カルウィリウスはトゥロイリウムと他の5つの要塞を占領し、ファルスキ軍に勝利、莫大な賠償金を課して講和条約を結んだ。
 
ローマに戻り、カルウィリウスは[[凱旋式]]を実施した。その際、戦利品の多くを兵に分お会いし、38万ポンドの青銅を国庫に納め、残りを[[フォルトゥーナ]]神殿の建立に使った。サムニウムから奪った青銅の鎧を鋳潰して、[[カンピドリオ|カピトリヌスの丘]]の上に[[ユーピテル]]の巨像が作られた。その巨大さのため、アルバ山の神殿からも見えたと言われている。伝説によると、その巨像を磨き上げる際に剥がれ落ちた青銅の量は、カルウィリウスの像を作るに十分であり、彼の像はユーピテル像の足元におかれたといわれている<ref>[[ティトゥス・リウィウス]]『[[ローマ建国史]]』、x. 9, 39, 43-45, 46.</ref><ref>[[:en:Joannes Zonaras|Joannes Zonaras]], ''Epitome Historiarum'', viii. 1.</ref><ref>[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|大プリニウス]]『[[博物誌]]』、xxxiv. 7., s. 18</ref><ref>[[バルトホルト・ゲオルク・ニーブール]]『ローマ史』、vol. iii., p. 392 ff.</ref>。
 
翌年、カルウィリウスは軍事経験を持っていなかった執政官[[デキムス・ユニウス・ブルトゥス・スカエウァ]]の[[レガトゥス]](高級士官幕僚)となった。歴史家[[ウェッレイウス・パテルクルス]]([[紀元前19年]] - [[31年]])は、おそらく[[紀元前289年]]に[[ケンソル]](監察官)に就任したとしている<ref>[[ウェッレイウス・パテルクルス]]『ローマ世界の歴史』、ii. 128.</ref><ref>Joannes Zonaras, ''Epitome Historiarum'', viii. 1.</ref>
 
==二回目の執政官==
カルウィリウスは、[[紀元前272年]]に二度目の執政官に就任。同僚執政官は前回と同じくクルソルであった。[[ピュロス戦争]]([[紀元前280年]]– [[紀元前275年]])の後、[[イピロス|エペイロス]]王[[ピュロス]]はイタリアを去ったが、両執政官はピュロスが戻る前にサムニウムとの戦いを完全に終わらせようとした。戦争の詳細は不明であるが、両執政官はサムニウム、ルカニア([[:en:Lucanians|en]])、ブルティウム([[:en:Bruttii|en]])、さらにはターレス(ローマ名タレントゥム、現在の[[ターラント]])に勝利し、二度目の凱旋式を実施した<ref>[[凱旋式のファスティ]]</ref><ref>Joannes Zonaras, ''Epitome Historiarum'', viii. 6.</ref><ref>[[ティトゥス・リウィウス]]『[[ローマ建国史]]』、 epitome 14</ref><ref>[[バルトホルト・ゲオルク・ニーブール]]『ローマ史』、vol. iii., p. 524.</ref>。
 
紀元前234年と紀元前228年に執政官を努めた[[スプリウス・カルウィリウス・マクシムス・ルガ]]は息子にあたる<ref>''[[:en:Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology|Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology]]'', [[:en:William Smith (lexicographer)|William Smith]], Editor</ref>。
 
==参考資料==