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| 画像 = Kusunoki Masashige.jpg
| 画像サイズ = 230px
| 画像説明 = 楠木正成像(楠妣庵[[楠妣庵観音寺|観音寺]]蔵、伝[[狩野山楽]]画)
| 時代 = [[鎌倉時代]]末期 - [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]
| 生誕 = [[永仁]]2年([[1294年]])?
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'''楠木 正成'''(くすのき まさしげ)は、[[鎌倉時代]]末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけての[[武将]]。父は[[楠木正遠]]とされる。息子に[[楠木正行|正行]]、[[楠木正時|正時]]、[[楠木正儀|正儀]]がいる。
 
[[後醍醐天皇]]を奉じて[[鎌倉幕府]]打倒に貢献し、[[建武の新政]]の立役者として[[足利尊氏]]らとともに天皇を助けた<ref>『人物日本の歴史8』106頁。</ref>。尊氏の反抗後は[[新田義貞]]、[[北畠顕家]]とともに[[南朝 (日本)|南朝]]側の軍の一翼を担ったが、[[湊川の戦い]]で尊氏の軍に敗れて自害した。
 
[[明治]]以降は「'''大楠公'''(だいなんこう)」と称され、明治13年([[1880年]])には[[正一位]]を追贈された。
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== 生涯 ==
=== 出自 ===
[[Imageファイル:Kusunoki-Masashige-birthplace.jpg|thumb|220px|楠公誕生地([[大阪府]][[南河内郡]][[千早赤阪村]])]]
 
==== 河内の土豪説 ====
『[[太平記]]』巻第三「主上御夢の事  付けたり  楠が事」には、楠木正成は河内[[金剛山 (金剛山地)|金剛山]]の西、[[大阪府]][[南河内郡]][[千早赤阪村]]に居館を構えていたとある<ref>[[山下宏明]]校注『太平記』新潮日本古典集成、昭和52年,p113</ref><ref>[[佐藤和彦]]編『図説 太平記の時代』河出書房新社、1990年p6</ref>。
 
[[楠木氏]]は[[橘氏]]の後裔とされる<ref name="araisyutuji">{{Cite book|和書|author=新井孝重|title=楠木正成|publisher=吉川弘文館|date=2011|pages=p58-63|isbn=978-4642080668}}</ref>。正成の母は、[[橘遠保]]の末裔[[橘盛仲]]の娘。また、任官には[[源平藤橘]]の姓が必要であるため、楠木氏は橘氏を借りたとする説もある<ref name=araisyutuji/><ref>[[生田目経徳]]『楠木氏新研究』東京清教社、1935年</ref><ref name=araisyutuji/>。『太平記』巻第三には楠木氏は[[橘諸兄]]の後裔と書かれており、楠木氏と関係の深い[[久米田寺]]の隣の[[古墳]]は橘諸兄の墓といわれ、楠木氏は橘氏を礼拝する豪族であったともいわれる<ref name=araisyutuji/>。
 
また『観世系図』によれば[[観阿弥]]の母は河内玉櫛荘の橘正遠(正成の父・[[楠木正遠]])の娘すなわち正成の姉妹という記録があり、この玉櫛荘を正成の出身地とする推定もある<ref>[[黒田俊雄]]『日本の歴史8 蒙古襲来』中央公論社、昭和40年、1965年、p456</ref>。
 
==== 得宗被官・御家人説 ====
[[得能弘一]]が楠木氏[[駿河国]]出身説を提唱し(「楠木正成の出自に関する一考察」『神道学』128)、[[筧雅博]]、[[新井孝重]]も楠木氏の出自は駿河国とした<ref name=araisyutuji/><ref name=kakei>{{Cite book|和書|author=筧雅博|chapter=得宗政権下の遠駿豆|title=静岡県史 通史編2中世|date=1997}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=筧雅博|title=蒙古襲来と徳政令 日本の歴史|volume=10|publisher=講談社|date=2001|pages=p366-368}}</ref><ref name="araisyutuji">{{Cite book|和書|author=新井孝重|title=楠木正成|publisher=吉川弘文館|date=2011|pages=p58-63|isbn=978-4642080668}}</ref><ref>新井・49頁</ref>。筧雅博はその理由として、以下を挙げている。
# 楠木正成の地元である河内の金剛山西麓から観心寺荘一帯に「楠木」の{{読み仮名|字|あざ}}はない。
# 鎌倉幕府が[[正応]]6年([[1293年]])7月に駿河国の[[荘園]][[入江荘]]のうち長崎郷の一部と楠木村を[[鶴岡八幡宮]]に寄進したと言う記録があり楠木村に北条[[得宗]][[被官]]の楠木氏が居住したと想定できる。
# 観心寺荘の地頭だった[[安達氏]]は[[弘安]]8年([[1285年]])に入江荘と深い関係にある鎌倉幕府の有力御家人[[長崎氏]]に[[霜月騒動]]で滅ぼされ、同荘は得宗家に組み込まれたとみられる。それゆえ出自が長崎氏と同郷の楠木氏が[[観心寺荘]]に移ったのではないかと思われる<ref group="注">現在でも駿河の国(静岡市清水区)には長崎と楠(古文書では楠木)とう地名が隣接して存在している。</ref>。
# 楠木正成を攻める鎌倉幕府の大軍が京都を埋めた[[元弘]]3年([[正慶]]2年、[[1333年]])閏2月の公家二条道平の日記である『後光明照院関白記』(『道平公記』)に <q>くすの木の ねはかまくらに成ものを 枝をきりにと 何の出るらん</q> とう[[落首]]が記録されている<ref>『後光明照院関白記』正慶2年閏2月1日条</ref>、この落首は「楠木氏の出身は鎌倉(東国の得宗家)にあるのに、枝(正成)を切りになぜ出かけるのか」という意とされ、河内へ出軍する幕府軍を嘲笑したものとされる<ref name="araisyutuji" />。
 
[[網野善彦]]は、[[楠木氏]]はもともと[[武蔵国]][[御家人]]で[[北条氏]]の[[被官]]([[御内人]])で、[[得宗]]領河内国[[観心寺]]地頭職にかかわって河内に移ったと推定した<ref name="aminokotob">[[網野善彦]]「楠木正成」『朝日 日本歴史人物事典』,kotobank. ISBN 978-4023400528</ref>。正成は幼少時に[[観心寺]]で仏典を学んだと伝わる<ref name=kakei/>。
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==== 悪党・非御家人説 ====
[[永仁]]3年([[1295年]])、東大寺領播磨大部荘が雑掌(請負代官)でありながら年貢を送らず罷免された垂水左衛門尉繁晶の一味として楠河内入道がおり、[[黒田俊雄]]はこの河内楠一族を正成の父と推定し、正成の出自は[[悪党]]的な荘官武士ではないかとした<ref>[[黒田俊雄]]『日本の歴史8 蒙古襲来』中央公論社、昭和40年、1965年、p455</ref>。
 
[[林屋辰三郎]]は河内楠氏が[[散所]]民の長であったとした<ref>『古代国家の解体』([[1955年]]東京大学出版会、新版1983年</ref><ref name=hyodo/>。[[兵藤裕己]]はこの説を有力とし、正成の行為も[[悪党]]的行為であるとした<ref name=hyodo>兵藤裕己『太平記 〈よみ〉の可能性』講談社1995年、講談社学術文庫2005年,p70-73</ref>。
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[[元亨]]2年([[1322年]])、正成は得宗・[[北条高時]]の命により、[[摂津国]]の要衝[[淀川]]河口に居する[[渡辺党]]を討ち、[[紀伊国]][[安田庄司]][[湯浅氏]]を殺害し、南[[大和]]の[[越智氏 (大和国)|越智氏]]を撃滅している<ref>新井・48頁</ref>。
 
この一連の状況は『[[高野春秋編年輯録]]』に詳しい<ref>新井・48頁</ref>。渡辺党を討った正成は[[高野山]]領を通過して紀伊安田へと向かい、安田荘を攻撃した<ref>新井・49頁</ref>。安田庄司は湯浅一族であり、当時湯浅氏は高野山との相論に負けて紀伊国[[阿弖河荘]](阿瀬川荘)を没収されており、この正成の攻撃は没収地の差押さえであったとされる<ref>新井・49頁</ref>。その結果、正成は幕府から得宗領となった阿弖河荘を与えられた<ref name=aminokotob/><ref>新井・48頁</ref><ref name=aminokotob/>。
 
その後、正成は越智氏の討伐へと向かった。越智氏は幕府に[[根成柿]]の所領を没収され、さらには北条高時が興じる[[闘犬]]の飼料供出まで求められ、憤った[[越智邦永]]が自領で六波羅の役人を殺害するに至った<ref>新井・48頁</ref>。六波羅北方は討手として奉行人[[斎藤利行]]、[[小串範行]]らを二度にわたって派遣したが、そのゲリラ戦に手痛い敗北を喫していた<ref>新井・48-49頁</ref>。そのため、六波羅は正成を起用し、彼は越智氏を討つことに成功した<ref>新井・49頁</ref>。
 
新井孝重は正成が渡辺党、湯浅氏、越智氏といった反逆武装民を討滅したことは非常に興味深いと述べている<ref>新井・48-49頁</ref>。また、一連の軍事行動を否定する積極的な根拠は見いだせず、これらは本当にあったと考えている<ref>新井・48頁</ref>。新井は得宗被官であった正成が反逆武装民を討つのは当然の行為であると指摘し、この当時はまだ鎌倉幕府に忠実な「番犬」として畿内ににらみを利かせていたとしている<ref>新井・49頁</ref>。
 
正成による渡辺党、湯浅氏、越智氏の討滅に六波羅は感嘆の声を上げ、そして怖れたといい、世間の人々にもその強烈な印象を与えた<ref>新井・49頁</ref>。当時、畿内では悪党が幕府への反逆、合戦を繰り返し、その支配に揺らぎが生じていた<ref>新井・49頁</ref>。幕府は[[安藤氏の乱]]で手を焼かされており、合戦の名人である正成が悪党のエネルギーを吸収し、いずれ反逆した場合への不安を抱いたとされる<ref>新井・49-50頁</ref>。
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天皇が笠置山に籠ると、笠置寺の衆徒や近国の豪族らが兵を率いて駆けつけてきたが、名ある武士や、百騎、二百騎を率いた大名などは一人も来なかった<ref name=主上御夢事付楠事/>。そのため、後醍醐天皇は皇居の警備もままならないと不安になり、心配になって休んだ際に夢を見た<ref name=主上御夢事付楠事/>。その夢の中では、庭に南向きに枝が伸びた大きな木があり、その下には官人が位の順に座っていたが南に設けられていた上座にはまだ誰も座っておらず、その席は誰のために設けられたものなのかと疑問に思っていた<ref name=主上御夢事付楠事/>。すると童子が来て「その席はあなたのために設けられたものだ」と言って空に上って行っていなくなってしまった。
 
夢から覚めて、天皇は夢の意味を考えていると「木」に「南」と書くと「楠」という字になることに気付き、寺の衆徒にこの近辺に楠という武士はいるかと尋ねたところ、 [[河内国]][[石川郡 (大阪府)|石川郡]][[金剛山 (金剛山地)|金剛山]](現在の[[大阪府]][[南河内郡]][[千早赤阪村]])に[[橘諸兄]]の子孫とされる楠木正成(楠正成)という者がいるというので、後醍醐帝はその夢に納得し、すぐさま楠木正成を笠置山に呼び寄せる事にした<ref name=主上御夢事付楠事/>。[[万里小路藤房]]が勅使として笠置山から河内に向かい、正成の館に着いてその事情を説明した<ref name=主上御夢事付楠事/>。すると、正成は「弓矢取る身であれば、これほど名誉なことはなく、是非の思案にも及ばない」と快諾した<ref name=主上御夢事付楠事/>。そして、正成は人に気が付かれないようにすぐさま河内を出て、笠置山に参内した<ref name=主上御夢事付楠事/>。
 
正成は後醍醐天皇から勅使派遣より時を置かずに参内したことを褒められ、そのうえで正成がどのような計画を持ち、勝負を一気に決めて天下を太平にするのかを問われた<ref name=主上御夢事付楠事/>。正成はこの問いに対し、「幕府の大逆は天の責めを招き、衰乱の機会に乗られて天誅が下されます。その好機なら必ず滅ぼすことができます。天下草創には武略と智謀の2つがあります。勢いに任せて合戦を行えば、たとえ60余州の軍勢をもってしても武蔵・相摸の領国に勝利を得ることはできないでしょう。もし何らかの策を用いて戦えば、幕府は守勢に回って欺きやすくなり、怖れるに足らなくなるでしょう。合戦の常は個々の勝敗にこだわらないことです。(たとえ戦いで敗れたとしても)正成がたった一人生存していれば、天皇の聖運が必ず開けると御思い下さい」と述べた<ref name=主上御夢事付楠事/>。そして、正成は河内に戻り、赤坂城([[下赤坂城]])で挙兵した<ref name=笠置軍事付陶山小見山夜討事>『太平記』巻三「笠置軍事付陶山小見山夜討事」</ref>。
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だが、正成は寡兵ならものその攻撃によく耐えた。敵が城に接近すれば弓矢で応戦し、その上城外の塀で奇襲を仕掛けた<ref>新井・83頁</ref>。敵が堀に手を掛ければ、城壁の四方に吊るされていた偽りの塀を切って落とし敵兵を退け、上から大木や大石を投げ落とした<ref>新井・83-84頁</ref><ref name=赤坂城軍事>『太平記』巻三「赤坂城軍事」</ref>。これに対し、敵が楯を用意して攻めれば、塀に近づいた兵に熱湯をかけて追い払った<ref>新井・84頁</ref>。正成のこれらの一連の攻撃により、幕府軍の城攻めは手詰まりに陥った<ref>新井・84頁</ref>。
 
新井孝重は一土豪に過ぎない正成に関東から上洛した軍勢が束になって攻撃を仕掛けたことに注目している<ref>新井・81頁</ref>。単なる悪党の蜂起であるならばこれほどの大軍勢の投入は有り得ず、正成の尋常なる実力の証左であるとしている<ref>新井・81頁</ref>。正成はかつて幕府に反逆した武士を次々に討伐した合戦の名人であり、鎌倉は明らかに正成を大いなる脅威と認識していたと考えられる<ref>新井・82頁</ref>。
 
しかし、赤坂城は急造の城であるため、長期戦は不可能と考えた楠木正成は、 同年10月21日夜に赤坂城に自ら火を放ち、幕府軍に城奪わせた<ref name=aminokotob/>。鎌倉幕府は赤坂城の大穴に見分けのつかない[[焼死]]体を20-30体発見し、これを楠木正成とその一族と思い込んで同年11月に[[関東]]へ帰陣した。
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==== 赤坂城の奪還、和泉・河内の制圧 ====
元弘2年/正慶元年([[1332年]])4月3日<ref name=楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事>『太平記』巻六「楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事」</ref>、正成は湯浅宗藤の依る赤坂城を襲撃した。正成は赤坂城内に兵糧が少なく、湯浅宗藤が領地の阿弖河荘から人夫5、6百人に兵糧を持ち込ませ、夜陰に乗じて城に運び入れることを聞きつけ、その道中を襲って兵糧を奪い、自分の兵と人夫やその警護の兵とを入れ替え、空になった俵に武器を仕込んだ<ref name=楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事/>。楠木軍は難なく城内に入ると、俵から武器を取り出して[[鬨]]の声を上げ、城外の軍勢もまた同時に城の木戸を破った<ref name=楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事/>。これにより、湯浅宗藤は一戦も交えることなく降伏し、正成は赤坂城を奪い返した<ref name=aminokotob/><ref name=楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事/><ref name=aminokotob/>。
 
楠木勢は湯浅氏を引き入れたことで勢いづき、瞬く間に和泉・河内を制圧し、一大勢力となった。そして、5月17日には摂津の住吉・天王寺に進攻し、渡部橋より南側に布陣した<ref name=楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事/>。京には和泉・河内の両国からは早馬が矢継ぎ早に送られ、正成が京に攻め込むと可能性がある知らせたため、洛中は大騒ぎとなった<ref name=楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事/>。このため、六波羅探題は隅田、高橋を南北六波羅の軍奉行とし、5月20日に京から5千の軍勢を派遣した<ref name=楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事/>。
 
5月21日、六波羅軍は渡部橋まで進んだが、渡部橋の南側に楠木軍は300騎しかおらず、兵らは我先にと川を渡ろうとした<ref name=楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事/>。だが、これは正成の策略で、前日に、主力軍は住吉、天王寺付近に隠して二千2,000余騎の軍勢を三手に分けており、わざと敵に橋を渡らせてから流れの深みに追い込み、一気に雌雄を決すという作戦であった<ref name=楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事/>。正成は敵の陣形がばらけたところで三方から攻め立て、大混乱に陥った敵は大勢が討たれ、残りは命からがら京へと逃げ帰った<ref name=楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事/>。
 
その後、六波羅は隅田、高橋の敗北を見て、武勇で誉れ高い[[宇都宮公綱|宇都宮高綱]](のち公綱)に正成討伐を命じ、7月19日に宇都宮は京を出発した<ref name=楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事/>。宇都宮は[[天王寺]]に布陣したが、その軍勢は6、600-700騎ほどであった<ref name=楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事/>。
 
和田孫三郎は正成に戦うことを進言したが、正成は宇都宮が坂東一の弓取りであること、そして[[紀清両党]]の強さを「戦場で命を捨てることは、塵や芥よりも軽いもの」と評してその武勇を恐れ、「良将戦わずして勝つ」と述べた<ref name=楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事/>。その後、夜にあちこちの山で松明を燃やし、宇都宮がいつ攻めてくるのかわからないような不安に陥らせ、三日三晩これを行った<ref name=楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事/>。
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==== 千早城の戦い ====
[[ファイル:Chihaya Castle16.jpg|thumb|230px|right|千早城合戦図(長梯子の計の場面が描かれている)/湊川神社蔵、[[歌川芳員]]画]]
やがて、北条高時は畿内で反幕府勢力が台頭していることを知り、9月20日に30万余騎の追討軍を東国から派遣した<ref>『太平記』巻六「関東大勢上洛事」</ref>。これに対し、正成は河内国の赤坂城の詰めの城として、千早城をその背後の山上に築いた。正成は[[金剛山 (金剛山地)|金剛山]]一帯に点々と要塞を築きその総指揮所として千早城を活用し、千早城、[[上赤坂城]]、下赤坂城の3城を以て幕府に立ち向かうことにした。
 
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建武2年([[1335年]])、[[中先代の乱]]を討伐に向かった尊氏が、鎌倉で新政に離反した。追討の命を受けた義貞は12月に[[箱根・竹ノ下の戦い]]で尊氏に敗れて京へと戻り、これを追う尊氏は京へ迫った。
 
だが、翌年1月13日に[[北畠顕家]]が近江坂本に到着すると、正成は義貞や顕家と合流し、連携を取って反撃を仕掛けた。28日、正成は義貞、顕家、[[名和長年]]、[[千種忠顕]]らと共に京都へ総攻撃を仕掛ける<ref group="注">ただし合戦の火蓋が切られたのは27日ともわれる。山本・199頁より</ref>。この合戦は30日まで続いた<ref>山本・199頁</ref>。この合戦の結果、尊氏は京都を追われ、後醍醐帝が京都を奪還する。
 
合戦は正成の策略と奇襲によって後醍醐帝らの勝利に終わり、京都の奪還には成功したものの、尊氏、[[足利直義|直義]]兄弟ら、足利軍の主要な武将の首級を挙げることはできなかった。敗走する足利軍は丹波を経由して摂津まで逃れたが、2月11日に正成は義貞、顕家とともに摂津豊島河原([[大阪府]][[池田市]]・[[箕面市]])の戦い([[豊島河原合戦]])で足利方を京から九州へ駆逐する。
 
==== 朝廷との確執 ====
[[Fileファイル:Emperor Godaigo.jpg|thumb|200px|[[後醍醐天皇]]像([[清浄光寺]]蔵)]]
『[[梅松論]]』には、後醍醐帝の軍勢が足利軍を京都より駆逐したことに前後して、正成が新田義貞を誅伐して、その首を手土産に足利尊氏と和睦するべきだと天皇に奏上したという話がある<ref>峰岸・107頁</ref>。その根拠として、確かに鎌倉を直接攻め落としたのは新田義貞だが、鎌倉幕府倒幕は足利尊氏の貢献によるところが大きい<ref>峰岸・107頁</ref>。さらに義貞には人望、徳がないが、足利尊氏は多くの諸将からの人望が篤い、九州に尊氏が落ち延びる際、多くの武将が随行していったことは尊氏に徳があり、義貞に徳がないことの証である<ref>峰岸・107頁</ref>、というものであった。
 
正成のこの提案は、『梅松論』にしか記載されておらず、事実かどうかは不明である<ref>山本・205頁</ref>。しかし、歴戦の武将であり、ゲリラ戦で相手を翻弄する手段を得意とし洞察力に長けた正成は純粋に武将としての器量として、義貞よりも尊氏を高く評価していた<ref>峰岸・108頁</ref>。加えて、義貞と正成は、相性があまりよくなかったといわれる<ref>山本・205頁</ref>。義貞は京都の軍勢を構成する寺社の衆徒や、その他畿内の武士達とは関係が薄く、『太平記』などに描かれる義貞は、鎌倉武士こそを理想の武士とする傾向があり、彼らへの理解に乏しかった。河内国などを拠点に活動する正成は、この点において、義貞と肌が合わなかったと考えられる<ref>山本・205頁</ref>。一方で、尊氏は寺社への所領寄進などを義貞よりも遥かに多く行っていて、寺社勢力や畿内の武士との人脈も多かった。義貞よりも尊氏の方が理解できる、尊氏の方に徳があると正成が判断してもおかしくはないと考えられている<ref>山本・205頁</ref>。
 
この提案は、天皇側近の公家達には訝しがられ、また鼻で笑われただけであり<ref>山本・204頁、峰岸、107頁</ref>、にべもなく却下されてしまった<ref>峰岸・107頁</ref>。正成は尊氏との和睦提案を容認されなかったばかりか、和睦を進言したことで朝廷の不信を買い、国許での謹慎を命じられた。そのため、3月に後醍醐は義貞を総大将とする尊氏追討の軍を西国へ向けて派遣したが、正成はこの追討軍からは外されている。
 
義貞は[[播磨国]]の[[白旗城]]に篭城する足利方の[[赤松則村]](円心)を攻めている間に時間を空費し、[[延元]]元年/建武3年([[1336年]])4月に尊氏は[[多々良浜の戦い]]で九州を制覇して体制を立て直すと、京都奪還をめざして東進をはじめた。尊氏は[[高師直]]らと博多を発ち、[[備後国]]の[[鞆の浦|鞆津]]を経て、四国で[[細川氏]]・[[土岐氏]]・[[河野氏]]らの率いる船隊と合流して海路を東進し、その軍勢は10万を越していた。一方、義貞の軍勢はその数を日ごとに減らし、[[5月13日]]に兵庫(現[[兵庫県]][[神戸市]][[中央区_(神戸市)|中央区]]・[[兵庫区]])に到着した時には2万騎を切っていた<ref>『太平記』巻十六「新田殿被引兵庫事」</ref>。
 
足利方が再び京に迫まり、義貞が兵庫に退却したという早馬が京へ届くと、後醍醐天皇は正成を呼び出し、義貞とともに尊氏を迎え撃つように命じた<ref name=正成下向兵庫事>『太平記』巻十六「正成下向兵庫事」</ref>。正成は帝に対し、「尊氏の軍勢は大軍であり、疲弊した味方の小勢でまともに正面からぶつかれば、決定的な負け戦になるでしょう。ここは新田殿を京に呼び戻し、帝は以前のように比叡山に臨幸して下さい。私が河内に戻って河尻([[淀川]]の河口)を抑え、京に入った足利軍を新田軍とともに前後から兵糧攻めにすれば、敵兵の数は減ることでしょうし、我々の軍勢には味方が日々馳せ参じるでしょう。その時を狙い、新田殿が比叡山から、私が搦手より攻め上れば、朝敵を一戦で掃滅すること可能かと思えます。新田殿もきっとこの作戦に同意するでしょう」と進言した<ref name=正成下向兵庫事/><ref>峰岸・108頁</ref>。この策は正成にとっては、比叡山に朝廷を一時退避して足利軍を京都で迎え撃つという、現実的かつ必勝の策でもあった。
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=== 兵庫への下向と決戦前夜 ===
[[ファイル:楠木正成169.jpg|thumb|220px|[[桜之驛址駅跡]]にある楠父子別れの像([[大阪府]][[三島郡 (大阪府)|三島郡]][[島本町]])]]
絶望的な状況下、義貞の麾下で京都を出て戦うよう出陣を命じられ、5月16日には正成は京から兵庫に下向した<ref name=正成下向兵庫事/>。道中、正成は息子の[[楠木正行|正行]]に「今生にて汝の顔を見るのも今日が最後かと思う」と述べ、桜井の宿から河内へ帰した<ref name=正成下向兵庫事/>。これが有名な楠木父子が訣別する[[桜井の別れ]]であるが、史実であるかどうかは不明である。
 
24日、正成は兵庫に到着し、義貞の軍勢と合流した。正成は義貞と合流したのち会見し、義貞に朝廷における議論の経過を説明した<ref>峰岸・109頁</ref><ref name=正成下向兵庫事/><ref>峰岸・109頁</ref>。
 
『太平記』によるとその夜、義貞と正成は酌み交わし、それぞれの胸の内を吐露した<ref name=正成下向兵庫事/>。義貞は先の戦で尊氏相手に連敗を喫したことを恥じており、「尊氏が大軍を率いて迫ってくるこの時にさらに逃げたとあっては笑い者にされる。かくなる上は、勝敗など度外視して一戦を挑みたい」と内情を発露した<ref>峰岸・109頁</ref>。義貞は鎌倉を攻め落とすという大功を成し遂げたため、その期待から尊氏討伐における天皇方総大将という過重な重荷を担わされた。そのため、ずっと常に世間の注目を受けていて、それを酷く気にせざるを得ず、箱根竹下での敗北、播磨攻めへの遅参、白旗城攻略の失敗などについて、義貞は強い自責の念を感じていた<ref>峰岸・109-110頁</ref>。
 
正成はこの義貞の心中の吐露に対して、「他者の謗りなど気にせず、退くべき時は退くべきであるのが良将の成すべきことである。北条高時を滅ぼし、尊氏を九州に追いやったのは義貞の武徳によるものだから、誰も侮るものはいない」といい、玉砕覚悟の義貞を慰めると同時に嗜めた<ref>峰岸・109-110頁</ref>。正成の説得で義貞の顔色は良くなり、夜を通しての彼らの物語に数杯の酒が興を添えた、と『太平記』は語っている<ref name=正成下向兵庫事/>。
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=== 湊川の戦いと最期 ===
[[Fileファイル:Battle of minatogawa-ja.svg|thumb|300px|right|湊川の戦いにおける布陣]]
25日の辰刻(午前8時頃)、楠木・新田連合軍は足利軍と海を挟んで[[湊川]]で対峙した([[湊川の戦い]])。正成は他家の軍勢を入れず、7百余騎で湊川西の宿にて布陣し、陸地から攻めてくる敵に備えていた<ref name=兵庫海陸寄手事>『太平記』巻十六「兵庫海陸寄手事」</ref>。『太平記』によると、正成も義貞も足利方の大軍に対して少しもひるむことはなかったという<ref name=兵庫海陸寄手事/>。
 
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== 死後 ==
[[Imageファイル:Minatogawa-jinja KusunokiMasanari Bohi.jpg|thumb|220px|[[湊川神社]]にある墓碑(嗚呼忠臣楠子之墓)]]
湊川で自害した正成の首は足利方に回収され、六条河原に梟首された<ref name=正成首送故郷事>『太平記』巻十六「正成首送故郷事」</ref>。だが、正成の首を見た人々は1336、延元元/建武3年(1336年)初頭にも偽の首が掲げられたこともあって、その首が本物か疑ったという<ref name=正成首送故郷事/>。その後、尊氏は残された家族を気遣い、正成の首を故郷である河内に送り返した<ref name=正成首送故郷事/>。
 
息子の[[楠木正行|正行]](後世「小楠公」と称される)を筆頭に、[[楠木正時|正時]]、[[楠木正儀|正儀]]らも正成と同じく南朝方として戦い、正行と正時は[[四條畷の戦い]]で激戦の末に戦死している。また、彼らの子孫も[[後南朝]]に属して、北朝を擁する[[室町幕府]]と戦った。
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[[江戸時代]]には[[水戸学]]の[[尊王思想|尊皇]]の史家によって、正成は忠臣として見直された。[[会沢正志斎]]や久留米藩の祀官[[真木保臣]]は楠木正成をはじめとする国家功労者を神として祭祀することを主張し、[[慶応]]3年(1867年)には尾張藩主[[徳川慶勝]]が「楠公社」の創建を朝廷に建言した<ref name=Haruyama/>。[[長州藩]]はじめ楠公祭・[[招魂祭]]は頻繁に祭祀されるようになり、その動きはやがて後の[[湊川神社]]の創建に結実し、他方で[[靖国神社]]などの[[招魂社]]成立に大きな影響を与えた<ref name=Haruyama>{{PDFlink|[http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/refer/200607_666/066603.pdf 靖国神社とはなにか―資料研究の視座からの序論―]}} 春山明哲、国立国会図書館月刊誌「レファレンス」No.666、2006年(平成18年)7月号。</ref>。
 
[[明治]]になり[[南北朝正閏論]]を経て南朝が正統であるとされると「大楠公」と呼ばれるようになり、[[講談]]などでは『[[三国志演義]]』の[[諸葛亮|諸葛孔明]]の天才軍師的イメージを重ねて語られる。また、[[皇国史観]]の下、戦死を覚悟で大義のために従容と逍遥と戦場に赴く姿が「忠臣の鑑」、「日本人の鑑」として讃えられ、[[修身]]教育でも祀られた。
 
[[佩刀]]であったと伝承される[[小竜景光]]([[東京国立博物館]]蔵)は、[[山田浅右衛門]]の手を経て、[[明治天皇]]の佩刀となった。明治天皇は[[大本営]]が広島に移った時も携えていたとされる。
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明治政府は、南朝の功臣の子孫にも[[爵位]]を授けるため、正成の子孫を探した。正成の末裔を自称する氏族は全国各地に数多く存在したが、直系の子孫であるかという確かな根拠は確認することができなかった。このため、[[新田氏]]、[[菊池氏]]、[[名和氏]]の子孫等は[[男爵]]に叙せられたが、楠木氏には[[爵位]]が与えられなかった。その後、大楠公600年祭(昭和10年)を前後して楠木氏の子孫が確認され、[[湊川神社]]内に楠木同族会が組織されて現在に至っている。
 
戦後は価値観の転換と歴史学における[[中世]]史の研究が進むと[[悪党]]としての性格が強調されるようになり、[[吉川英治]]は『[[私本太平記]]』の中で、戦前までのイメージとは異なる正成像を描いている。もっともこの「悪党」という評価はあくまで歴史学のものであり、一般のものではない(悪党という言葉は、一般的に社会の秩序を乱す者ないし悪事をなす集団などを意味する用語である)。[[日本放送協会|NHK]]のテレビ番組『堂々日本史』において「建武新政破れ、悪党楠木正成自刃す」というタイトルで放送された際、湊川神社がNHKに抗議する事件が起きている。
 
== 墓所・霊廟・史跡など ==
[[Imageファイル:Kanshinji KusunokiMasanari kubuduka1.jpg|thumb|220px|[[観心寺]]([[大阪府]][[河内長野市]])にある楠公首塚]]
[[Imageファイル:Takemikumari-jinja-nagi-jinja.jpg|right|thumb|220px|[[南木神社]]]]
[[Imageファイル:Nanko-ubuyuno-ido.jpg|right|thumb|220px|楠公産湯の井戸]]
[[Imageファイル:Hokento.jpg|right|thumb|220px|奉建塔(楠公六百年記念塔)]]
 
; 大楠公首塚 - [[大阪府]][[河内長野市]][[観心寺]]
: [[高野山真言宗]]の寺院、檜尾山観心寺の境内にある。湊川の戦いの後、尊氏の命によって送り届けられた正成の首級が葬られている。[[観心寺]]塔中院は、正成の曾祖父[[楠木成氏|成氏]]が再建したと伝えられる、楠木家代々の菩提寺。
; [[湊川神社]] - [[兵庫県]][[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]]
: 楠木正成(大楠公)の神霊を主祭神とし、子息の楠木正行(小楠公)および湊川の戦いで斃れた一族十六柱と[[菊池武吉]]の神霊を配祀。戦後になって大楠公夫人久子の神霊も合祀された。神社として創建されたのは比較的新しく、明治5年([[1872年]])のこと。神社創建以前から存在した墓所には、[[徳川光圀]]によって墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」が建立されている。異説もあるが、湊川の戦いで敗れた正成が弟正季とともに「七生」を誓って現在の湊川神社の北に位置する[[広厳寺]] (廣厳寺)の塔頭で共に自刃して自害したとされる<ref group="注">「七生」は七度生まれ変わって朝敵を滅ぼすの意味。後代にはこれに「報国」の意味が加わり「七生報国」と呼ばれた。</ref>。その後、塚に移された戦没地ではあるが、同寺は墓所地と自害地を境内に有している(同寺本堂には正成とその一族の位牌がある)。
;[[桜井駅跡]]
:「楠公父子訣別之所」として知られ、太平記第十六巻」の「正成兵庫に下向の事」(湊川の戦い)において1336年(延元元年・建武3年(1336年)、足利尊氏を討つべく湊川に向かう楠木正成が、嫡男の楠木正行を河内国に帰らせたと伝えられている。(→(「[[桜井の別れ]]の項を参照)。駅自体は、大阪府[[三島郡]]島本町桜井1丁目にある古代律令制度下の駅家の跡。[[1921年]][[大正]]10年)国指定の史跡である。
; [[南木神社]] - [[大阪府]][[南河内郡]][[千早赤阪村]][[建水分神社]]
: 建水分神社の[[摂社]]で、正成が祭神。本社の[[建水分神社]]は楠木家の[[氏神]]とされる。延元2年 / 建武4年([[1337年]])に後醍醐天皇により自ら彫刻の正成像が祀られたのが起源であり、後に[[後村上天皇]]より「南木(なぎ)明神」の神号を受けた。正成を祀る最古の神社。
; [[楠妣庵観音寺]] - [[大阪府]][[富田林市]]甘南備
: [[臨済宗]][[妙心寺派]]の寺院で、楠木家の[[香華寺]]とされる。楠公史跡河南八勝第二蹟、[[河内西国霊場]]二十20番札所。[[正平 (日本)|正平]]3年 / [[貞和]]4年([[1348年]])に楠木正行・正時が[[四條畷の戦い]]で戦死した後、正成の妻で正行・正時の母の[[南江久子|久子]]が、草庵を建立。[[敗鏡尼]]と称して入寂するまでの16年間、この草庵[[楠妣庵]]に隠棲し、楠木一族郎党の菩提を弔った。敗鏡尼の入寂後、[[楠木正儀]]は観音殿を観音寺と改め、不二房行者([[授翁宗弼]])を住まわせた。観音寺は楠妣庵とともに、兵火による度重なる衰退を繰り返し、更に廃仏毀釈により廃寺となった。[[1917年]](大正]]6年([[1917年]])に草庵楠妣庵が復元再建、同11年([[1922年]])に観音寺本堂が再建された。
; [[長滝]][[七社神社]] - [[岐阜県]][[山県市]]長滝
: 七社神社横に、八王寺宮と刻まれた楠公夫人久子(南江久子)の墓がある。正成の妻が楠木一族郎党の菩提を弔った後、戦乱の中、この地を離れ、美濃乃国伊自良村長滝釜ヶ谷奥の院に隠棲。地域の尊志を得て、久子の生地甘南備村の字名、長滝、平井、掛、松尾等を伊自良に与えた。奥の院にある甘南備神社は、楠木家の遠祖と称える[[橘諸兄]]の父、[[美努王]]を祀る。甘南備村の口碑には、楠木正成夫人久子は、観音像を念持仏にして、行脚に出たが、終わるところ知らずとある。墓は、伊自良湖の登り口、長滝七社神社境内西にある。楠公夫人がこの地に訪れた最大の理由は、[[新田義貞]]亡き後、その弟の[[脇屋義助]]が大将となり、北陸で敗れ、美濃の南朝一派と共に、最後の[[根尾城]]の戦いでも敗れ、[[根尾川]]の下流、本巣地区の北朝の根城を避け、一緒に戦った[[伊自良次郎左衛門]]の家臣とともに、伊自良に流れ、吉野に帰ったその経路に従ったものと思われる。
; [[茨木城]] - [[大阪府]][[茨木市]]
: 建武年間に正成が建てたとされる説のある城跡。現在は[[廃城]]であり、かつての搦手門が[[茨木神社]]に、復元された櫓門が[[茨木市立茨木小学校|茨木小学校]]に残る。
; 楠公産湯の井戸 - 大阪府南河内郡千早赤阪村
: 生誕の地から徒歩数分のところに「楠公産湯の井戸」とされる井戸がある。
; [[春日大社]] - [[奈良県]][[奈良市]]春日野町
:国宝の黒韋威矢筈札胴丸([[甲冑]])は正成が奉納したと伝わっている。
; [[平泉寺白山神社]] - [[福井県]][[勝山市]]
: 平泉寺町平泉寺の神社。「楠正成公墓碑」がある。寺伝にれば正成の弟が当時、同寺宗徒であったがある日兄の夢を見た。のち、その日が戦死の日であったことがわかり、供養として墓を建てたとされている。下って[[江戸時代]]には[[福井藩]]主の[[松平光通]]により、石柵と石畳参道が整備された。
; 楠公像 - [[東京都]][[千代田区]]
: [[皇居外苑]]の[[二重橋]]を正面に見据える位置に建てられた銅像。[[1891年]](明治]]23年([[1891年]])に[[住友家]]が開発した[[別子銅山]]の開坑200年記念事業として、[[東京美術学校]](現在の[[東京芸術大学]])に製作を依頼、製作には[[高村光雲]]、[[山田鬼斎]]、[[岡崎雪聲]]らが別子鉱山の銅が使って完成までに10年をかけて献納された。像のモデルは、隠岐から還幸した後醍醐天皇を兵庫で迎えた正成の姿であるとされる<ref>{{Cite web|url=http://fng.or.jp/koukyo/place/gaien-03.html|title=皇居外苑の魅力(3) (3) - 楠公像|publisher=一般財団法人国民公園協会 皇居外苑|accessdate=2016-02-17}}</ref>。
; 奉建塔(楠公六百年記念塔) - [[大阪府]][[南河内郡]][[千早赤阪村]]
: 正成信仰が隆盛のなか、没後600年を記念して、昭和15年([[1940年]](昭和15年)に全国の児童学生や教職員等の募金により浄心寺塞(上赤坂城支塞)跡に建てられた記念塔。正成討死の年齢43歳に因み、高さはおよそ43尺(約13m)。塔には家紋の菊水紋、旗印の「非理法権天」の文字が刻まれている(ただし、旗印は史実ではなく伝承。[[非理法権天]]の記事を参照)。
 
== 関連作品 ==
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:* 『[[太平記 (NHK大河ドラマ)|太平記]]』(NHK[[大河ドラマ]]、1991年)演:[[武田鉄矢]]
 
== 出典脚注 ==
=== 脚註注釈 ===
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== 脚註 ==
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==