「おんな城主 直虎」の版間の差分

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== あらすじ ==
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===直虎誕生まで===
時は戦国、[[遠江国|遠江]][[井伊谷]]を代々治める[[井伊氏|井伊家]]は、乱世の中で[[駿河国|駿河]]の大大名・[[今川氏|今川家]]の軍門に下ることで所領を安堵されていたが、家中では今川家への不満や反発がくすぶっていた。
 
[[天文 (元号)|天文]]13年([[1544年]])、井伊家の当主'''井伊直盛'''と妻'''千賀'''には世継ぎがなく、叔父'''井伊直満'''の嫡男'''亀之丞'''を、一人娘である嫡女'''おとわ'''と婚約させることで後継ぎとすることを考える。しかし、直満は当時、今川家と敵対していた[[相模国|相模]]の[[後北条氏|北条家]]と通じて謀反を企てたとして、'''今川義元'''により[[駿府]]へ呼び出され誅殺される。亀之丞は密かに[[信濃国|信濃]]へと逃がされたが、井伊家中では今川家寄りの家老'''小野政直'''の発言力が増す結果となった。政直は嫡男'''鶴丸'''をおとわの婿とすることで井伊家の当主とすることも画策するが、亀之丞の帰還を待つ決意であったおとわが反発し、勝手に髪を下ろしてしまったため破談となる。義元はおとわを人質として駿府に置くことを求めたが、おとわの大叔父である[[龍潭寺 (浜松市)|龍潭寺]]住職'''南渓和尚'''による義元の側近'''太原雪斎'''への交渉や、今川家臣の妻となっていた大叔母'''佐名'''の働きかけ、そしておとわ自身の努力もあり、出家を条件に許される。おとわは井伊家の跡取りが代々受け継ぐ「次郎」の名を与えられ'''次郎法師'''と名乗り出家する。井伊谷に伝承されている「竜宮小僧」が困った者を助けるように、自らも将来亀之丞を助ける存在となるべく、龍潭寺で厳しい修業の日々を送る。
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この一件で今川家に睨まれた井伊家は罠を仕掛けられ、直親が内密に松平家と誼を通じようとした証拠を寿桂尼につかまれてしまう。直虎は松平家に出入りしていた山伏'''松下常慶'''により今川の罠を知るが時すでに遅く、駿府に出向いていた政次は直親を見捨てざるを得なかった。永禄5年([[1563年]])12月、直親は誅殺覚悟で駿府に弁明に向かうが途上で刺客に襲われ、奥山孫一郎や'''今村藤七郎'''らとともに殺害される。さらに虎松殺害を命じられた井伊家は、今川家臣'''新野左馬助'''による助命嘆願と引き換えに出兵した戦で、次郎の曽祖父'''井伊直平'''や直由、左馬助といった井伊家の支えを全て失う。この間、井伊谷に戻らず生死不明だった政次は永禄8年([[1565年]])春、氏真から命じられた虎松の[[後見人]]として[[井伊谷三人衆]]の'''近藤康用'''・'''鈴木重時'''・'''菅沼忠久'''とともに帰還する。政次は人格が変わったように井伊家を嘲り、次郎を冷たく拒絶する。罠にかかった原因が自分にあることもあって傷つき荒れる次郎は南渓に諭され、直親の遺志を継ぐ者として'''井伊直虎'''を名乗り、政次に対抗して後見人となり井伊家を治めることを宣言する。
 
===城主直虎の活躍===
しかし、女性である直虎が後見人に就くことに、数少ない家臣である直由の息子'''中野直之'''と孫一郎の弟'''奥山六左衛門'''、そして直親の後家・しのが猛反発する。直虎自身も政(まつりごと)に対する知見も経験もなく苦労を強いられる上に、百姓らの求める[[徳政令]]を発布すれば借金まみれの井伊家が破綻すると知る。直虎はその[[銭主]]である'''瀬戸方久'''の商才を見込んで家臣に取り立て、徳政令を凍結するかわりに領内に[[木綿]]栽培などの新しい産業を興し、百姓らを潤すことを訴え支持を得る。今川家からの徳政令発布命令を無視したことにより、直虎は直親同様に申し開きを求められ危機に陥るが、寿桂尼への真摯な説明と領民の支持により正式に後見人と認められ、直之や六左衛門も直虎を認め献身的に仕えてゆくようになる。このような中で直虎は、自分を後見人から降ろそうとする政次が、実は井伊家を守るため矢面に立って家中の悪役を演じていることに気付き和解。家臣らに対しては対立する領主と家老を演じながら、政次の考える「戦わぬ道」によって小国である井伊家を守る道をともに模索する間柄となってゆく。
 
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井伊の外では[[武田氏|武田家]]との同盟が危うくなった今川氏真が、離反を防ぐ策の一環として支配下の家臣や国衆らに政略結婚を勧めており、直虎は政次と協力して新野左馬助の娘らの縁談を取り計らう。ところが材木の販売を進める中、売り先の商人が井伊の材木を'''徳川家康'''(元・松平元康)側に横流ししていると知った氏真は'''関口氏経'''を派遣し、井伊が謀反を企てているとして申し開きを求めてくる。直虎は臣下らに命じて材木を取り戻す作戦を立て、氏真との対面時に駿府にこれを届け、今川家に対する井伊家の忠義として示す。こうして難局を乗り切った直虎だが、その材木は城を建てるため気賀に運び込まれており、商人による気賀の自治が脅かされる方向に不満を持つ町衆らは築城賛成派と反対派に二分して荒れる。直虎は気賀の商人'''中村与太夫'''の協力で両者の話し合いに同席し、自治継続を条件に築城を認める方向で和解に持ち込むが、顛末を聞いた方久はこの流れに商機を見出し、気賀の城を直虎が治めるよう提案する。直虎は戸惑うが、気賀の町衆らの要望と政次が井伊に利有りと判断したことを受けて心を決める。方久は氏経や城主候補の'''大沢元胤'''を懐柔し、元は武家の子で忌まわしい落城経験を持つために反対派だった龍雲丸も、自ら守りに強い城のあり方を調べ[[普請]]を手がける。翌年完成した[[堀川城]]の城主となった直虎は、方久に[[城代]]を命じて気賀の自治を保障する。
 
===政次の死と井伊家の滅亡===
今川家では寿桂尼が病身を押して'''武田信玄'''と交渉し、当主としての自信を持てず卑屈になる氏真と対立するが、2度目の危篤に陥ったことを経て和解する。寿桂尼の回復後には最期の別れに見せかけて国衆らを呼び出し、裏切りの可能性が高い者らへの[[粛清]]を進めてゆく。直虎もこの呼び出しに応じ、両者涙ながらの対話で怨恨を越えた関係を振り返るが、直虎は表向きでは忠義を誓うものの今川家による支配からの脱出を決意しており、寿桂尼もまた彼女を粛清対象と判断する。
 
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井伊谷が復興される中で直虎は、中村与太夫に誘われ堺に旅立つ龍雲丸についていく約束を果たそうとするが、直虎の心を知った龍雲丸はやるべきことが終わったら堺へ来ればいいと説得し、ひとり堺へ旅立つ。
 
===万千代の活躍===
2年後、龍潭寺で直親の[[年忌|十三回忌]]法要が行われる。松下源太郎の養子となっていた'''松下虎松'''は6年ぶりに井伊谷に帰還し、一族と再会する。虎松は、直虎が家の再興を完全に諦めた後も、現領主の近藤康用と良好な関係を築いて民に豊かさをもたらす様子を目の当たりにし、自分の力での井伊家再興を決意する。奥山家の一員となっていた政次の甥'''奥山亥之助'''とともに家康にお目見えが叶った虎松は、策を弄して訴えた家名再興を受け入れられる。虎松は'''井伊万千代'''、亥之助は'''小野万福'''の名を与えられ、ともに家康に仕取り立てられるが、虎松を跡取りとして育ててきた松下家の人々は恩を仇で返す行為に猛反発し、直虎も同調する。同じくこの決定に側近が不服や懸念を持っていることを知る家康は、松下の者としてなら[[小姓]]だが、井伊の者としてならば草履番として取り立てるという選択を万千代に迫る。万千代は陰で怒り狂いながらも井伊の家名を選び、与えられた仕事に取り組もうと決意する。直虎は万千代を説得するため浜松城を訪れた際、家康と会談し彼が万千代の成長に期待していることを知るが、再興問題を取り下げさせることは結局できない。だが、源太郎が養父としての愛情から一連の件を受け入れたため、松下家の人々もそれに従う。