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==集団就職・低学歴労働者の歴史==
===戦前における集団就職===
[[第二次世界大戦]]前に
===高度経済成長期における集団就職===
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====移動手段====
典型的な集団就職の形態として、[[農家]]の次男以降の子が、[[中学校]]や[[高等学校|高校]]を卒業した直後に、主要都市の[[工場]]や[[商店]]などに就職するために、[[臨時列車]]に乗って旅立つ集団就職列車が有名である。
一説には[[1955年]](昭和30年)から始まったとされ、東北からは[[上野駅]]までの就職列車が運行された<ref name="ae20110702">{{cite news|url=https://web.archive.org/web/20130623085434/http://doraku.asahi.com/earth/showashi/111122_02.html|newspaper=朝日新聞・夕刊|title=昭和史再訪 集団就職始まる 昭和30年3月 金の卵、上野駅に降り立った|author=畑川剛毅|date=2011-07-02|accessdate=2013--03-15}} - ウェブアーカイブ</ref>。ただし、これには異説もあり、当時の労働省の指導で「集団就職列車」の名称の列車が運行された時期の起点である[[1963年]](昭和38年)を起点と見ることもでき、逆に実態としては[[1954年]](昭和29年)以前からそうした列車が運行されていたとする説もある<ref name="kotobank"/><ref name="hashimoto11">橋本,2005,p.11.</ref>。集団就職列車は[[1954年]](昭和29年)4月5日15時33分[[青森駅|青森]]発[[上野駅|上野]]行き[[臨時列車|臨時]][[夜行列車]]から運行開始され、[[1975年]](昭和50年)に運行終了されるまでの21年間に渡って就職者を送り続けた。就職先は[[東京]]が最も多く、中でも[[上野駅]]のホームに降りる場合が多かったため、当時よく歌われた[[井沢八郎]]の『[[あゝ上野駅]]』
集団就職は、地方公共団体などが深く関わって行
。また[[1960年]](昭和35年)から[[1970年]](昭和45年)までは、毎年5月の連休前後に[[東京]]の[[日本青年館]]で関東地方に就職した集団就職者を対象とした激励大会を催し、県知事が出向いて挨拶するなどしていた<ref name="hashimoto11" />。
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;人口学的・経済学的要因
:戦後の[[高度経済成長]]で、[[大企業]]の[[サラリーマン]]や[[公務員]]は高卒者や大卒者を採用したが、その結果、都市部([[東京都]]、特に[[足立区]])などの町工場や個人商店は人手不足であった。日本の敗戦まで農村では農業は跡継ぎの長男のみが相続していて、田畑を相続できず食えない農家の次男・三男は戦前まで軍隊で養われていた。<ref>
『日本近現代史入門 黒い人脈と金脈 単行本』広瀬 隆 (著)452頁 </ref>次男など年少の男性は[[家督]]を[[相続]]した[[兄]]である[[長男]]の扶養家族となっていた。次男以下は[[農業]]の手伝いをするという社会だった。農村では農家の次男・三男
;教育学的要因
:進学率の問題
;経済学的要因
:[[農業]]・[[林業]]・[[漁業]]の[[第一次産業]]が中心の社会で自営業が多かったこともある。全日制高校に進学して普通の環境で勉強したくても家庭の事情で進学できず、やむをえず定時制高校に進学する若者がたくさんいた。彼らは町工場や商店で働き、中卒労働者の若者が[[井沢八郎]]の『[[あゝ上野駅]]』の歌に共感したことに象徴されるように[[東北地方]]や[[九州地方]]から[[太平洋ベルト|4大工業地帯]]を目指して集団就職列車で都会に向かい、15歳で経済的に自立して社会人となり実質的に成人した。
====金の卵(きんのたまご)====
[[日本]]の[[昭和時代]](戦後期)に[[高度経済成長]]を支えた若年(中卒)労働者のことをいう。[[1948年]](昭和23年)に新制中学が誕生した際に[[小
戦前の[[高等小学校]](基本は2年制)が[[1948年]]に新制中学として義務教育化されたことで、中学卒業後すぐに社会に出る若者が生まれ
高度経済成長を支えた
[[1964年]](昭和39年)に「[[金の卵]]」の言葉が[[流行語]]となった。
====生活環境====
[[公共職業安定所]]からも農村や地方の中学校に求人を出していた。求人倍率も
職種としては[[ブルーカラー]](特に製造業)やサービス業(特に商店や飲食店)での単純労働が主体であり、男子の中卒労働者の統計結果は工員が過半数を占め、次に多いのは[[職人]]であり、次に多いのは[[店員]]の順番であり、女子の中卒労働者の統計は[[ブルーカラー|工員]]が4割で最多であり、次に多いのは店員であり、続いて[[事務員]]の順で多かった。男子とは異なり、女子は
労働条件や生活環境もかなり厳しく、離職転職者も多かった<ref name="kotobank"/>。各種の理由から勤続後の独立開業が困難であったため、戦前のいわゆる[[丁稚]]よりも厳しい環境であった。
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安い労働力を大量に供給する集団就職によって日本の[[高度経済成長]]が支えられたと言える。また、[[1967年]](昭和42年)の[[美濃部亮吉]][[東京都知事]]の誕生を皮切りに[[1970年代]]後半まで大都市を中心に見られた[[革新自治体|革新首長]]の支持基盤になったとも言われている。
[[池田内閣]]は人づくり政策を発表して、教育に力を入れた。技術革新のため知識を備えた高卒以上の若い労働力が必要となり、1966年(昭和41年)度の[[中央教育審議会]]の答申では[[高等学校]]を少数のエリートコースと、技術労働者養成コースにふるい分ける
====退潮と終焉====
昭和40年代まで続いた[[高度経済成長]]期から[[安定成長]]期(昭和50年代)に移ると高校進学率の上昇や産業構造
;進学率の上昇
:[[1960年代]]後半以降は経済が安定し、[[所得倍増計画]]により各家庭の所得が増加したことや[[1969年]](昭和44年)の[[第32回衆議院議員総選挙]]で高校の[[義務教育]]化を政治公約にした[[日本社会党]]<ref>[[1969年]](昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙の選挙公報(日本社会党の政治公約)</ref> や「15の春を泣かせない」をスローガンとする高校全入運動の取り組みもあり、低所得層には[[奨学金]]を給付することで高校進学率が上昇し、高卒労働者が中卒労働者を上回った。[[新人類]]世代が進学する頃には高校進学率が高くなったため、中卒者が即戦力とされた技術職は工業高校などの高卒労働者や[[外国人労働者]]が担うようになった。[[鉄道空白地帯]]の解消など、[[公共交通機関]]の整備も高校進学率の上昇に拍車をかけた。例として[[岩手県]][[大船渡市]]旧[[三陸町]]域では1960年代まで公共の交通機関は路線バスしかなく、1969年(昭和44年)の高校進学者は約5割に留まっていたが、[[1970年]](昭和45年)には[[日本国有鉄道]](国鉄)盛線(現・[[三陸鉄道南リアス線]])が開業した。盛線は[[特定地方交通線]]に指定されるほどの赤字路線であったが、大量輸送と速達性・定時性で優位となる鉄道路線の開業効果もあり、[[1974年]](昭和49年)には約7割に上昇した<ref>鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル別冊No.34 懐かしの国鉄列車PARTⅠ 1980~1983』p.132-133</ref>。なお、盛線は1984年(昭和59年)に国鉄から[[三陸鉄道]]へ経営転換されている。
;[[近代化]]・[[工業化]]による[[合理化]]による単純労働者の減少
:製造業では合理化の一環として工場の[[オートメーション]]化を推進させた。その結果、単純労働者の需要が減少し、それまで単純労働者として
;年少者に対する労働条件・資格取得などの制約
:18歳未満の労働者は年少者として扱われるため、国家資格や免許の取得が制限されたり、[[労働基準法]]の規定で18歳未満の女子と16歳未満の男子
;経済の低迷
:[[1964年]](昭和39年)後半から[[1965年]](昭和40年)には証券不況により、経済が低迷しはじめた。[[1974年]](昭和49年)には[[オイルショック]]で経済が
以上の
===(参考)現代における低学歴労働者===
{{see also|就職活動#中学生の就職活動}}
高校への全入運動が定着し、低学力・非行・貧困・不登校・病弱・障害など特殊な事情で高校進学が困難な場合を除いてほとんどの中学生が高校へ進学し、高校への進学率が90%を超えたことで「高校も(事実上の)義務教育」と化するようになった。それに加え[[1985年]](昭和60年)に[[プラザ合意]]があった[[バブル時代]]以降は、[[円高]]に伴い[[製造業]]が生産拠点を次々と海外に移転
一方で、[[調理師]]や伝統工芸、[[鳶職]]などの[[職人]]、[[相撲]]の[[力士]]、[[競馬]]の[[騎手]]、[[伝統芸能]]の役者や[[舞妓]]などは現在でも実力主義が根付いており、個人の技量や意欲に依存
== 日本国外における同種の労働者の事例 ==
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