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[[アントウェルペン]]が[[帝国郵便]]を介してスペインと結ばれたころであった。[[1516年]]、[[ハプスブルク家]]のカール大公がスペイン王[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カルロス1世]]として即位し、[[スペイン・ハプスブルク朝]]が始まる。カルロス1世は[[1519年]]に[[神聖ローマ皇帝]]カール5世としても即位し、[[反宗教改革]]の擁護者となった。すると[[コムニダーデスの反乱]]([[1520年]] - [[1521年]])がおこった。1538年[[プレヴェザの海戦]]で[[シナン・レイース]]が[[オスマン帝国]]の勝利に貢献した。
 
16世紀前半に[[エルナン・コルテス]]、[[ペドロ・デ・アルバラード]]、[[フランシスコ・ピサロ]]をはじめとする[[コンキスタドーレス]]が[[アステカ文明]]、[[マヤ文明]]、[[インカ文明]]などアメリカ大陸の文明を滅ぼす。アメリカ大陸の住民は[[インディオ]]と呼ばれ、奴隷労働によって[[金]]や[[銀]]を採掘させられた。[[洋銀]]が[[ポトシ]]や[[グアナフアト]]の銀山で鋳造された。金銀は1552年からスペイン帝国の外へ流出した<ref name=seki310>『世界歴史大系 スペイン史 1』 310-312頁</ref>。オスマン帝国や[[イギリス]]との戦争によって流出は加速した。それをイギリスや[[オランダ]]が蓄積した([[資本の本源的蓄積]])。ここで洋銀が[[金銀比価]]に影響を与えはじめた。
 
スペイン帝国は[[ラテンアメリカ]]の従属と低開発を規定した([[アシエンダ制]])<ref>[[エドゥアルド・ガレアーノ]]『[[収奪された大地_ラテンアメリカ五百年]]』大久保光夫訳 新評論 1986</ref>。最盛期の[[スペイン帝国]]は[[南アメリカ]]、[[中央アメリカ]]の大半、[[メキシコ]]、[[北アメリカ]]の南部と西部、[[フィリピン]]、[[グアム]]、[[マリアナ諸島]]、[[北イタリア]]の一部、[[南イタリア]]、[[シチリア島]]、北アフリカのいくつかの都市、現代の[[フランス]]と[[ドイツ]]の一部、[[ベルギー]]、[[ルクセンブルク]]、[[オランダ]]を領有した<ref>{{cite web
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=== ハプスブルク朝の経済と戦争 ===
<!--[[ファイル:Portrait_of_Philip_II_of_Spain_by_Sofonisba_Anguissola_-_002.jpg|サムネイル|フェリペ2世]]-->
カルロス1世([[1516年]] - [[1556年]])と[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]([[1556年]] - [[1598年]])の治世に、スペインは世界で初めて「[[太陽の沈まない国|太陽の没することなき帝国]]」となった。海上と陸上の探検が行われた[[大航海時代]]であり、大洋を越える新たな貿易路が開かれ、ヨーロッパの[[植民地主義]]が始まった。探検者たちは[[貴金属]]、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。この時期は[[スペイン黄金世紀]]と呼ばれる。[[十分の一税]]の徴収記録によれば、16世紀を通じて本土の人口と農業生産量が増加した<ref>『世界歴史大系 スペイン史 1』 305-307頁</ref>。その一方で新世界の開拓者は耕作しなかった<ref name=seki310 />。スペインは食料生産が追いつかず、輸入元へ支払った貨幣を国内で費消するよう規制していた<ref name=seki310 />。しかし破綻して、1552年カスティーリャ王国がついに貴金属の輸出を許した<ref name=seki310 />。1559年[[カトー・カンブレジ条約]]。[[1561年]]、フェリペ2世は宮廷を[[マドリード]]に移した。以後マドリードは現在までスペインの首都である。
 
16世紀後半からは戦乱の連続であった。[[スペイン領ネーデルラント|ネーデルラント]]の反乱([[八十年戦争]])([[1568年]] - [[1648年]])、{{仮リンク|モリスコの反乱|en|Morisco Revolt}}([[1568年]])、{{仮リンク|オスマン・ハプスブルク戦争|en|Ottoman–Habsburg wars|label=オスマン帝国との衝突}}([[レパントの海戦]], 1571年)、[[英西戦争 (1585年)|英西戦争]]([[1585年]] - [[1604年]])、[[モリスコ追放]]([[1609年]])、そして[[フランス・スペイン戦争 (1635年-1659年)|フランス・スペイン戦争]]([[1635年]] - [[1659年]])が起こっている。戦費は成金を貴族化させることで調達したので、1591年カスティーリャ王国の貴族は60万人(総人口の10%)に達したが、17世紀スペイン全人口においても一割程度を占めた<ref>『世界歴史大系 スペイン史 1』 314-317、369-371頁</ref>
 
16世紀末から[[小氷期]]の17世紀にかけて、スペインはあらゆる方面からの攻撃を受けた。急速に勃興したオスマン帝国と海上で戦い、イタリアやその他の地域でフランスと戦火を交えた。さらに、[[プロテスタント]]の宗教改革運動との宗教戦争の泥沼にはまり込む。その結果、スペインはヨーロッパと地中海全域に広がる戦場で戦うことになった<ref>{{cite web
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[[スペイン継承戦争]]([[1701年]] - [[1713年]])は広範囲の国際紛争かつ内戦でもあり、欧州でスペイン帝国の版図を縮小した<ref name="cong" />。そこで新たに[[ブルボン家]]が王位に就き、[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]が連合王国の王位を統合した<ref name="cong" />。[[ユトレヒト条約]]と[[ラシュタット条約]]により[[スペイン・ブルボン朝]]が成立した。1717年、通商院を[[カディス]]へ移転した。1735年、[[両シチリア王国]]を領土に加えた。
 
1755年[[リスボン大地震]]。1759年[[啓蒙専制君主]][[カルロス3世 (スペイン王)|カルロス3世]]が即位した。25年もナポリ王であった彼は、財務大臣に[[レオポルド・デ・グレゴリオ]](エスキラーチェ侯爵)を起用した<ref name=seki391>『世界歴史大系 スペイン史 1』 391-397頁</ref>。1765年7月、侯爵は穀物の最高取引価格設定を廃して流通を自由化した<ref name=seki391 />。するとマドリードのパン価格は1761年と比べておよそ二倍となった<ref name=seki391 />。そして1766年エスキラーチェ暴動がおきた([[:es:Motín de Esquilache|Motín de Esquilache]])<ref name=seki391 />。民衆は侯爵の罷免と食糧価格の引き下げにとどまらず、マドリード警備兵と服装取締令の廃止を要求した<ref name=seki391 />。王は自ら宮廷のバルコニーに立って群衆の要求を呑んだ<ref name=seki391 />。暴動は勢いづいて全国へ伝播していった<ref name=seki391 />。1767年2月の勅令が、暴動の首謀者として全土から[[イエズス会]]が財産没収のうえ追放された<ref name=seki391 />。なお、英仏の[[啓蒙思想]]は{{仮リンク|ガスパール・メルチョール・デ・ホベジャーノス|es|Gaspar Melchor de Jovellanos|en|Gaspar Melchor de Jovellanos|label=ホベジャーノス}}や<ref name=seki391 />、{{仮リンク|ベニート・ヘロニモ・フェイホー|es|Benito Jerónimo Feijoo|en|Benito Jerónimo Feijóo y Montenegro|label=フェイホー}}によって輸入され、一部の貴族や王家の中で地歩を築いた。18世紀後半、貴族と教会が農法の啓蒙活動を展開した([[:es:Sociedades económicas de amigos del país|Sociedades económicas de amigos del país]])<ref>『スペイン経済の歴史』 25頁</ref>。貿易も急速に成長し、[[アメリカ独立戦争]]では[[パトリオット (アメリカ革命)|アメリカ独立派]]に軍事援助を行った<ref>{{cite web
|last=Gascoigne|first=Bamber|title=History of Spain: Bourbon dynasty: from AD 1700|publisher=Library of Congress Country Series|year=1998|url=http://www.historyworld.net/wrldhis/PlainTextHistories.asp?HistoryID=ab50&ParagraphID=iss#iss|accessdate=2008-08-09}}</ref>。
 
18世紀スペインの人口増加率は地域格差を示した。すなわち農村部が栄えた<ref name=hirota11>『スペイン経済の歴史』 11-14頁</ref>。[[バレンシア]]は1718年から1794年の間に、その人口が25万強から93万強となった<ref name=hirota11 />。住民数が十万を超えた都市はマドリードとバルセロナだけであった<ref name=hirota11 />。[[バリャドリッド]]やブルゴスも衰退した<ref name=hirota11 />。しかしラティフンディオは、そこを[[メリノ種]]の大群が往来し、小麦とオリーブ栽培は結果として粗放となって収量が極度に低いものとなった。世紀末に近づくにつれて飢饉が長期化した。1756年から1773年で小麦輸入量は1730万ブッシェルにのぼった<ref>『スペイン経済の歴史』 27頁</ref>
 
セビリア荘園コルティーホ(Cortijo)の労働力は全裸同然の日雇いブラセロス(Braceros)が主力であった<ref>『スペイン経済の歴史』 23頁</ref>
 
1783年の鉱業条例で、富鉱がスペイン植民地全体で解放されることが定められた<ref name=youichi />。1789年[[フランス革命]]。1793年スペインが[[フランス第一共和政]]と争った([[フランス革命戦争]])。1796年スペインは[[第二次サン・イルデフォンソ条約|サン・イルデフォンソ条約]]を結んだ。共和政に破れたスペインは属国としてイギリス・ポルトガルに宣戦布告した。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]率いる[[フランス第一帝政]]とも関係を維持した。1805年[[スペイン海軍]]・[[フランス海軍]]は[[イギリス海軍]]に破れた([[トラファルガーの海戦]])。[[ナポレオン戦争]]は[[スペイン領フロリダ]]をふくむアメリカ植民地との貿易を遮断した<ref name=hirota37>『スペイン経済の歴史』 37-38頁</ref>。主戦場の一つとなったカタロニアで綿工業がほぼ壊滅した<ref name=hirota37 />
 
=== 教会財産の循環構造 ===