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=== ナショナリズム衰退と金融スキャンダル ===
1975年11月22日にフランコ将軍が死ぬと、その遺言により [[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス王子]](アルフォンソ13世の孫)が王座に就き、[[王政復古]]がなされた。1976年スペインのエネルギー赤字は45億ドルにのぼった<ref name=hirota228 />。これは前年比で9%の増加であった<ref name=hirota228 />。[[オイルショック]]がスペイン経済に追い討ちをかけて、国際収支赤字は1975年の35億ドルから1976年の43億ドルへと悪化した<ref name=hirota228>『スペイン経済の歴史』 228頁</ref>。[[アドルフォ・スアレス]]政権は野放図な金融緩和に走った<ref>『スペイン経済の歴史』 229頁</ref>。1977年10月モンクロア協定([[:es:Pactos de la Moncloa|Pactos de la Moncloa]])が調印された。フアン・カルロス国王は専制支配を継続せず、[[スペイン1978年憲法]]の制定により民主化が達成され、スペイン王国は[[制限君主制]]国家となった。1981年2月23日には軍政復帰を目論む[[アントニオ・テヘーロ]]中佐ら一部軍人による[[クーデター]]未遂事件が発生したものの、毅然とした態度で民主主義を守ると宣言した国王に軍部の大半は忠誠を誓い、この事件は無血で鎮圧された ([[23-F]])。民主化されたスペインは1982年に[[北大西洋条約機構]](NATO)に加入、同年の[[1982年スペイン議会総選挙]]により、[[スペイン社会労働党]] (PSOE) から[[フェリペ・ゴンサレス]]首相が政権に就き43年ぶりの[[中道左派|左派]]政権が誕生した。1986年には[[ヨーロッパ共同体]](現在の[[欧州連合]])に加入。1992年には[[バルセロナオリンピック]]を開催した。一方、国内問題も抱えており、スペインは[[バスク国 (歴史的な領域)|バスク地域]]分離運動の[[バスク祖国と自由|ETA]]によるテロ活動に長年悩まされている。1982年に首相に就任したゴンサレスは14年に亘る長期政権を実現していたが、[[1996年スペイン議会総選挙]]にて[[中道右派|右派]]の[[国民党 (スペイン)|国民党]] (PP) に敗れ、[[ホセ・マリア・アスナール]]が首相に就任した。
 
2002年7月18日には{{仮リンク|ペレヒル島危機|en|Perejil Island crisis}}が起こり、[[モロッコ]]との間で緊張が高まったが、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の仲裁で戦争には至らなかった。同年9月、[[ホセ・マリア・アスナール|アスナール]]首相が[[イラク戦争]]を[[非常任理事国]]として支持、2003年3月のイラク戦争開戦後は[[有志連合]]の一員として、米英軍と共に[[イラク]]に[[スペイン軍]]1400人を派遣した。2004年3月11日に[[マドリード列車爆破テロ事件]]が起き、多数の死傷者を出した。選挙を3日後に控えていた右派の[[ホセ・マリア・アスナール|アスナール]]首相はこれを政治利用し、[[バスク祖国と自由]] (ETA) の犯行だと発表したが、3月14日に実施された[[2004年スペイン議会総選挙]]では左派の社会労働党が勝利し、[[ホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロ|サパテロ]]政権が誕生した。サパテロ首相は就任後、2004年5月にイラク戦争に派遣されていたスペイン軍を撤退させた。また、後に2004年の列車爆破事件は[[アルカーイダ]]の犯行<ref>{{cite web