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== 生涯 ==
=== 出生から東山寺僧堂時代 ===
[[丹波国]][[何鹿郡]](いかるがぐん)白道路村(現・[[京都府]][[綾部市]])に上田彦兵衛、母絹の三男として生まれる。父は文政8年(1825年)早くに没したので、親類の京都府[[加佐郡]]河守村の酒造家である由理清左衛門宅に引き取られ、養子となる。そして父の遺言に従い、9歳の時に出家をして、[[加佐郡]]行永村にあった[[龍勝寺]]の住職・大法和尚について出家得度する。この時僧名を宜牧と名づけられる。大和和尚は病身で経文祖録は進まず、もっぱら湯薬の世話に明け暮れた。その後天保8年(1837年)には京都府舞鶴市倉谷にある東山寺僧堂で二年程修行する<br>
=== 儀山善来の曹源寺そして京都嵯峨広沢の要光院時代 ===
のちに[[備前国]]の[[曹源寺]]{{要曖昧さ回避|date=2016年1月}}に儀山善来禅師として入山していた道誉を慕い、その門下につらなろうとして赴くが、すでに入門者が多数であることを理由に謝絶された。3日間懇請し続けてようやく入室を許された。研鑽を積むこと数年後、28歳の時に禅師の命により[[安芸国]]・[[佛通寺]]の瞶翁和尚の法化を助け、京都・嵯峨にある要行院の義堂和尚を訪問しそこに居住する<ref>{{Cite book|和書|author=鷲尾順敬|year=1992|title=増訂・日本仏家人名辞書|publisher=東京美術|pages=178p}}</ref>。
=== 天龍寺時代から遷化まで ===
 
41歳の時に[[天龍寺]]西堂に任命され、義堂に代わって叢林を指導する。[[元治]]元年([[1864年]])7月に天龍寺が戦火にあった時([[禁門の変]])には、祖堂に入って[[夢窓疎石]]の霊像を背負って山林の中に避難した。明治4年([[1871年]])に天龍寺派管長、明治5年([[1872年]])に大教正となり、禅宗三派(臨済宗・[[曹洞宗]]・[[黄檗宗]])の管長に選任された<ref>{{Cite book|和書|author=鷲尾順敬|year=1992|title=増訂・日本仏家人名辞書|publisher=東京美術|pages=179p}}</ref>。