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1557年1月17日に[[レーゲンスブルク]]にて、母の従弟にあたるバーデン=バーデン辺境伯フィリベルトと結婚した。フィリベルトはかつてメヒティルトの父ヴィルヘルム4世の被後見人として3年間[[ミュンヘン]]宮廷で暮らしたことがあり、その時からメヒティルトに好意を寄せていた。2人の婚姻は親族関係にあったにもかかわらず、教皇の特免を申請することなく行われた。これに関して、教皇[[パウルス4世 (ローマ教皇)|パウルス4世]]はアウクスブルク司教{{仮リンク|オットー・フォン・ヴァルトブルク|de|Otto von Waldburg}}枢機卿に対し、この婚姻に介入するよう指示を出している。教会との長い話し合いの結果、この問題の和解の一環として、夫婦が300ライン・グルデンを貧しい娘たちのための持参金として拠出することで話がまとまった。
 
[[神聖ローマ皇帝]]の顧問官だった{{仮リンク|ヨハン・ウルリヒ・ツァジウス|de|Johann Ulrich Zasius}}は、皇帝の命を受けて辺境伯フィリベルトの信仰を調査する際、生まれながらの[[カトリック]]信徒だった辺境伯夫人メヒティルトの手助けで、任務に成功している<ref>Anja Meusser: ''Für Kaiser und Reich'', Matthiesen, 2004, S. 421</ref>。メヒティルトは1565年に[[バーデン=バーデン]]で死去し、同市内の参事会教会に葬られた。辺境伯夫妻の墓碑銘はヨハン・フォン・トラールバッハ(Johann von Trarbach)が制作した<ref>http://mathematik.zum.de/zum/Faecher/G/BW/Landeskunde/rhein/baden/markgf/badbad/philibert1.htm{{リンク切れ|date=2018年3月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。辺境伯夫妻が若くして死去した後、4人の遺児たちはメヒティルトの兄バイエルン公[[アルブレヒト5世 (バイエルン公)|アルブレヒト5世]]に引き取られた<ref>Hans Jorg: ''Die Entwicklung des Volksschulwesens im heutigen Kreise Kreuznach'', 1959, S. 39</ref>。
 
== 子女 ==