「酒井家次」の版間の差分

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[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では、[[徳川秀忠]]に従って中山道を行軍したため、本戦には間に合わず、参加していない。慶長9年([[1604年]])に[[上野国]]高崎5万石に移封されている。
 
慶長19年([[1614年]])の[[大坂の陣#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]では、大坂城の東側の黒門口を持ち場として戦ったが、大坂城の堅い守りに阻まれてはかばかしい武功を挙げることは出来なかった。[[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]では激戦となった[[天王寺・岡山の戦い]]において、天王寺口第三陣の大将を任されている。しかし、豊臣軍の猛攻により、天王寺口の味方は散々に崩され、家次も敗走している。これに関連したのか戦後に家康より譴責があったが、閏6月に許されている。
 
[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])に[[越後国|越後]][[高田藩]]10万石に移封された。その2年後の元和4年(1618年)に死去した。家督は長男の[[酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)|忠勝]]が継いでいる。