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→‎歴史: アツザワ眼科(本郷三丁目駅)
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中国では[[モンゴル帝国|元]](モンゴル)の時代、幼時に病気で片目を失った張存という人が腕のいい工匠に磁器製の義眼を作ってもらったという。日本では江戸時代にすでにガラスに彩色したものがあったことは当時の書物にも記録が残っている。[[ヨーロッパ]]ではパレにより作成された金属に彩色した義眼などが紹介されている戦争による需要の高まりとともに広く普及した。
 
義眼の歴史は素材の変化に伴うものといってよく現在は[[アクリル樹脂|PMMA]]で作製されているが戦後間もなくまではガラス製であった。[[E・S・ガードナー]]の『義眼殺人事件』などを読むと当時からかなり高度な義眼を作製していたことをうかがい知ることができる。ドイツなどではその技法が他国流出しないようにかなりの規制をおこなっていた。日本では独自にその技術を開発し鉛ガラスによる開発にはじまり国策として岩城ガラスにより提供された素材をもとに当時東京大学でガラス加工を行っていた厚澤銀次郎よってその技法が確立された(現在も子孫が家業として継承している)。しかし戦後間もなく合成樹脂の加工技術が導入されたことから厚澤以降日本ではガラス義眼の作製を本格的に行う所までは至らなかった。
 
可動性義眼も比較的日本には早い時期にとりいれられた。可動性義眼という名前が誤解を生じさせ易いのだが、結果的に義眼がうごくのであるが問題はそれを動かすための眼球摘出もしくは眼球内容除去をしたあとに行われる特殊な手術方法をさすものといってよい。過去においては様々な形状をした主に樹脂製のものを埋没していたが長期的にあまり芳しい結果が得られなかったことから次第に手術後の義眼床の容積をできるだけ大きくしない為に球形の樹脂を埋没する程度になっている。また、球形をした主に[[燐灰石|アパタイト]]に眼筋の先端を取り付け結膜で被覆し、その上に義眼をかぶせる新たな義眼台がアメリカの形成外科医によって開発され、2000年代に入り、日本国内でも使用される例がみられるようになった。