「ジョー・シーウェル」の版間の差分

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== 経歴 ==
{{by|1920年}}にサザンリーグのニューオーリンズから[[クリーブランド・インディアンス]]に入団する。野球一家であり、弟の[[{{仮リンク|ルーク・シーウェル]]|en|Luke Sewell}}[[{{仮リンク|トミー・シーウェル]]|en|Tommy Sewell}}、いとこの[[{{仮リンク|リップ・シーウェル]]|en|Rip Sewell}}も後にメジャーリーグの選手になっている。シーウェルは、この年に頭部への死球の事故によって急逝した[[遊撃手]]の[[レイ・チャップマン]]の後釜を任されることになった。22試合で70打数23安打、.329の成績を残す。翌{{by|1921年}}からインディアンスのレギュラーに定着、打撃面でもコンスタントに3割をマークする打者になった。{{by|1923年}}には打率.353と109打点を挙げる活躍をし、翌{{by|1924年}}はリーグ最多の45二塁打と106打点を記録した。インディアンスには{{by|1930年}}まで計11年在籍したが、打率が3割を切ったシーズンは2回しかなかった。
 
一方で1923年以降は毎年全試合出場を続け<!--1922年は全試合には出場していない-->、1930年までに当時最長となる1103試合の連続出場の記録を作ったが、1930年シーズン途中に[[ニューヨーク・ヤンキース]]に放出され、連続試合出場の記録は途絶えてしまう。
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抜群のミートの巧さからバットを折られることが無く、14年の現役生活をたった一本のバットで乗り切った話が有名である。このバットは入団の際、当時のインディアンスの一塁手だった[[ジョージ・バーンズ (内野手)|ジョージ・バーンズ]]からもらったもので、シーウェルはこのバットに「ブラック・ベッツィー」と名前をつけ、日頃からコーラの瓶と噛み煙草で入念に手入れをしていたそうである。
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== 詳細情報 ==
=== 年度別打撃成績 ===