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'''テオドール・ジェリコー'''(Théodore Géricault
== 生涯 ==
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ジェリコーの作風は、[[古典主義]]を基本にしたものだが生来神話画や宗教画を好まず、現実社会の描写に深い関心を示した。生と死が隣り合わせの極限状態における人間の姿を描いた『[[メデューズ号の筏]]』をはじめとするジェリコーの作品は人間存在の本質に迫り、徹底した写実を追求した。こうしたジェリコーの仕事はドラクロワらの[[ロマン主義]]、[[ギュスターヴ・クールベ|クールベ]]らの[[写実主義]]など、19世紀ヨーロッパの主要な絵画運動の先駆的存在と位置付けられる。馬などを題材にして、激しい動きの一瞬を描きとめた作品には[[印象派]]などの近代絵画を先取りした部分も見られる。
ジェリコーは、1791年、北
ヴェルネのもとを去ったジェリコーは、1810年から1811年にかけて
1812年、21歳のジェリコーは『突撃する近衛[[猟騎兵]]士官』を[[サロン・ド・パリ|サロン]](官展)に出品し金賞を得た。この作品は激しい動きを見せる馬に乗った士官が振り向きざまに号令をかける一瞬を描いたもので、馬が主要なモチーフとなっている。続いて1814年、『戦場から去る負傷した胸甲騎兵士官』を出品した。ジェリコーが正式に出品した作品はこの2点と『メデューズ号の筏』の計3点だけである。
当時のフランスはナポレオンが退けられ、[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]が即位して[[王政復古 (ヨーロッパ)|王政復古]]が行われるなど波乱の時代であった。ジェリコーもこの時期、自ら近衛騎兵に志願したこともあったが、ナポレオンが復活してルイ18世が亡命するに及び、再び画業に戻った。
ジェリコーは1816年から1817年にはイタリアに滞在し、過去の巨匠の作品に学
フランスへ帰国後、1819年のサロンに問題作『[[メデューズ号の筏]]』を出品し、賛否両論を巻き起こした(この作品については後述)。
1820年から1822年には[[イギリス]]に滞在し、1821年には代表作の
== メデューズ号の筏 ==
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