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| caption = [[:{{仮リンク|アレクサンドル=マリー・コラン|en:Alexandre-Marie Colin|Alexandre-Marie Colin]]}}の手るテオドール・ジェリコーの肖像画(1816年)
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[[ファイル:Jean Louis Théodore Géricault 001.jpg|right|thumb|200px|{{仮リンク|エプソムの競馬|en|The 1821 Derby at Epsom}}]]
'''テオドール・ジェリコー'''(Théodore Géricault, [[1791年]][[9月26日]] - [[1824年]][[1月26日]])は[[19世紀]]前半に活動した[[フランス]]の画家。同時代に起きた生々しい事件を題材とした『[[メデューズ号の筏]](いかだ)』が代表作である。ジェリコーの作品は[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]などにも影響を与え、[[ロマン派]]絵画の先駆者と見なされるが、画業半ばの32歳で早世している。
 
== 生涯 ==
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ジェリコーの作風は、[[古典主義]]を基本にしたものだが生来神話画や宗教画を好まず、現実社会の描写に深い関心を示した。生と死が隣り合わせの極限状態における人間の姿を描いた『[[メデューズ号の筏]]』をはじめとするジェリコーの作品は人間存在の本質に迫り、徹底した写実を追求した。こうしたジェリコーの仕事はドラクロワらの[[ロマン主義]]、[[ギュスターヴ・クールベ|クールベ]]らの[[写実主義]]など、19世紀ヨーロッパの主要な絵画運動の先駆的存在と位置付けられる。馬などを題材にして、激しい動きの一瞬を描きとめた作品には[[印象派]]などの近代絵画を先取りした部分も見られる。
ジェリコーは1791年、北フランスは[[ルーアン]]の裕福な家庭に生まれ、1796年頃に家族とともに[[パリ]]に移住した。資産家で弁護士でもあったジェリコーの父親は、息子が画家以外の安定した仕事に就くことを望んだが、ジェリコーは絵画への情熱を捨てきれず、1808年、画家の[[{{仮リンク|カルル・ヴェルネ]]|en|Carle Vernet}}に弟子入りした。画家としてのジェリコーは古代の[[神話]]や[[聖書]]の物語よりも身の回りの現実を描くことに関心を示した。特に馬に対する関心は並々ならぬものがあり、生涯にわたって馬を題材にした作品を多く残している(現存している素描やスケッチから、馬が走るときの脚の動きを正確に知っていたことが伺える)。師のヴェルネは馬や騎馬人物像の画家として当時の第一人者と言われた人物であったが、ジェリコーは師の描く馬は単なるきれいごとであり、動物としての躍動感に欠けていると感じていた。
 
ヴェルネのもとを去ったジェリコーは、1810年から1811年にかけて[[画家{{仮リンク|ピエール・ナルシス・ゲラン]]という画家|en|Pierre-Narcisse Guérin}}に師事する。ゲランは[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の[[肖像画]]で有名な[[新古典主義]]の巨匠[[ジャック=ルイ・ダヴィッド|ダヴィッド]]の流れを汲む大家であったが、ジェリコーはこの師にも満足せず、[[ルーヴル美術館]]に通って、[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]]、[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]ら過去の巨匠たちの作品を師とするようになった。
 
1812年、21歳のジェリコーは『突撃する近衛[[猟騎兵]]士官』を[[サロン・ド・パリ|サロン]](官展)に出品し金賞を得た。この作品は激しい動きを見せる馬に乗った士官が振り向きざまに号令をかける一瞬を描いたもので、馬が主要なモチーフとなっている。続いて1814年、『戦場から去る負傷した胸甲騎兵士官』を出品した。ジェリコーが正式に出品した作品はこの2点と『メデューズ号の筏』の計3点だけである。
 
当時のフランスはナポレオンが退けられ、[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]が即位して[[王政復古 (ヨーロッパ)|王政復古]]が行われるなど波乱の時代であった。ジェリコーもこの時期、自ら近衛騎兵に志願したこともあったがナポレオンが復活してルイ18世が亡命するに及び、再び画業に戻った。
 
ジェリコーは1816年から1817年にはイタリアに滞在し、過去の巨匠の作品に学んだ、なかでも[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]のダイナミックな人物表現に影響を受けた。ジェリコーの馬に対する執心は続いており、[[ローマ]]においてもカーニバルの裸馬の競走を題材にした作品を描いている。
 
フランスへ帰国後、1819年のサロンに問題作『[[メデューズ号の筏]]』を出品し、賛否両論を巻き起こした(この作品については後述)。
 
1820年から1822年には[[イギリス]]に滞在し、1821年には代表作の1つ『{{日本語版にない記事リンク|エプソムの競馬|en|The 1821 Derby at Epsom}}』を描いている。駆ける馬の一瞬の姿を画面に描きとめたこの作品は、印象派の[[エドガー・ドガ|ドガ]]を先取りするものと評されている。フランスへ帰国後、1822年から1823年にかけて[[精神障害者]]をモデルとした人物画連作を描いている。だが、1823年には[[落馬]][[馬車]]の事故などがもとで持病の[[脊椎結核]]が悪化し、1824年1月に死去した。死の間際に発したジェリコーの言葉は「まだ、何もしていない」だったと言う。File:Gericaultdeathmask.jpg
 
== メデューズ号の筏 ==