「今村昌平」の版間の差分

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|publisher = [[夕刊フジ]]
|date = 2006-05-31
| accessdate = 2013-05-26}}</ref>。日本作品の受賞は1954年の[[衣笠貞之助]]監督による『[[地獄門]]』、1980年の[[黒澤明]]監督の『[[影武者 (映画)|影武者]]』に続く史上三度目となる。受賞効果もあり、1億7千万円で制作した同作は12億円を稼ぐヒットとなった<ref>日下部五朗『シネマの極道 映画プロデューサー一代』新潮社、2012年、p.179</ref>。なお、『楢山節考』を出品した際には、姥捨て山の話など外国人に分かるわけがなくどうせ受賞しないのだからと映画祭を欠席した<ref>日下部、2012年、p.11</ref>。同年のカンヌ国際映画祭では[[大島渚]]の『[[戦場のメリークリスマス]]』の前評判が高く、その下馬評を覆しての受賞だったが、受賞について本人は特に感動がなかったと述べている<ref>『映画は狂気の旅である 私の履歴書』日本経済新聞社、2004年、p.193</ref>。
 
『楢山節考』の成功により、東映とは[[1987年]]に『[[女衒 ZEGEN]]』を共同製作、[[1989年]]に東映配給で『[[黒い雨]]』を公開して東映とは3本で組んだが、『楢山節考』以外は当たらなかった<ref>日下部、2012年、p.179</ref><ref>今村昌平『映画は狂気の旅である 私の履歴書』日本経済新聞社、2004年、p.187</ref>。『黒い雨』は[[田中好子]]の演技が評価されたが<ref>『キネマ旬報』2011年6月上旬号、pp.19、21</ref>、20数社に出資を断られて資金調達に苦労し<ref>今村昌平『撮る カンヌからヤミ市へ』工作舎、2001年、pp.239-240</ref>、カンヌでも無冠に終わった<ref>中川洋吉『カンヌ映画祭』講談社現代新書、1994年、pp.90-92</ref>。同作を評価するフランス人評論家が無冠を批判する一幕もあった<ref>[[田山力哉]]『辛口シネマ批評 これだけは言う』講談社、1993年、p.50</ref>。
 
『黒い雨』7年間沈黙の末に、[[1997年]]に『[[うなぎ (映画)|うなぎ]]』を発表し、2。同作で二度目のカンヌ国際映画祭のパルムドールを受賞する同作パルムドールの史上最多受賞記録今村作品と2回であり、それを達成たの水準今村を含めた、[[フランシス・フォード・コッポラ]]、[[ダルデンヌ兄弟]]、[[ミヒャエル・ハネケ]]等の8監督のみ。歴史的快挙達していないという評価がありも関わらず式に今村の姿意外であるという反応だなかった。『楢山節考』では欠席していた今村は夫婦で同映画祭に出席していたが、本当は気が進まずに授賞式の前に帰国していた<ref>今村、2004年、p.195</ref><ref>香取、2004年、pp.454-456</ref>。
 
『うなぎ』の頃より糖尿病の悪化と加齢により立っているのがやっとの状態で気力も減退し、従来の粘りや執念も発揮できなくなっていたが<ref>香取、2004年、pp.455-457</ref>、その後も[[1998年]]に『[[カンゾー先生]]』、2001年に『[[赤い橋の下のぬるい水]]』を発表。
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* [[1963年]] - [[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]監督賞・脚本賞『[[にっぽん昆虫記]]』('63年映画配収 6位、3億3000万円)
* [[1979年]] - ブルーリボン賞監督賞・[[日本アカデミー賞]]監督賞・キネマ旬報賞監督賞『[[復讐するは我にあり]]』
* [[1983年]] - [[カンヌ国際映画祭]][[パルム・ドール|パルムドール]]・『[[楢山節考 (1983年の映画)|楢山節考]]』
* [[1989年]] - 日本アカデミー賞監督賞・[[キネマ旬報賞]]監督賞・[[日刊スポーツ映画大賞]]監督賞『[[黒い雨 (映画)|黒い雨]]』
* [[1997年]] - [[カンヌ国際映画祭]][[パルム・ドール|パルムドール]]・[[うなぎ (映画)|『うなぎ]]』
* [[1997年]] - 日本アカデミー賞監督賞・[[毎日映画コンクール]]監督賞『うなぎ』。第15回[[川喜多賞]]を受賞
* 死に際して[[旭日小綬章]]、[[フランス共和国]]より[[芸術文化勲章]]が贈られた。