「大橋宗桂 (9代)」の版間の差分

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『将棋の歴史』では十代宗桂の時代のことと紹介されていたので除去。
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宝暦10年([[1760年]])に初代看寿、宝暦11年([[1761年]])に三代宗看が相次いで没すると名人位は空位となる。宝暦13年([[1763年]])には父の八代宗桂との、御城将棋初の親子対戦が認められている(右香落とされで敗北)。[[明和]]元年([[1764年]])には五段に昇段する。同年に七段に昇段した伊藤家の五代伊藤宗印や、明和2年([[1765年]])に初出勤した[[大橋分家]]の五代大橋宗順とは好敵手であり、当時の将軍が将棋好きの[[徳川家治]]であったこともあって、名人空位時代でありながら「御好」と呼ばれる対局が盛んに行われるなど将棋界は活気づいた。
 
[[安永]]3年([[1774年]])、父の八代宗桂が没し、家督を継ぐ。このときに宗桂の名も襲名したと思われているが、御城将棋には印寿の名のままで出勤している。『[[徳川実紀|浚明院殿御実紀]]』にも、家治の将棋の相手の一人として「大橋印寿」の名が挙がっている。
 
大橋分家で安永7年([[1778年]])に[[大橋宗英 (6代)|六代大橋宗英]]が、伊藤家で[[天明]]4年([[1784年]])に[[伊藤宗看 (6代)|六代伊藤宗看]]が御城将棋に初出勤するなど、他家でも世代交代が進んだ。
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== 大橋家文書 ==
筆まめな人物で、大橋家文書のほとんどは同じく筆まめであった[[大橋宗桂 (5代)|五代宗桂]]、十一代宗桂とこの九代宗桂の手書きの文書類で占められているという。天明2年(1782年)より五代宗印と共に「奥御用」を務めたことも明らかになっている。また、足袋の着用をたびたび願い出たり、「将棋所」を役職名として幕府に認めさせようとしてその度に拒絶されるなど、将棋指しの地位向上や待遇の改善に腐心したという。寛政5年(1793年)に提出した由緒書で、「[[大橋宗桂 (初代)|初代宗桂]]が[[織田信長]]に直接取り立てられ、宗桂の名を与えられた」という、これまでの由緒書にはなかった表現を付け足した人物も九代宗桂である
 
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== 詰将棋 ==
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== 参考資料 ==
*[[有吉道夫]]『日本将棋大系 第7巻 九代大橋宗桂』(筑摩書房、1979年)
**[[山本亨介]]「人とその時代七(九代大橋宗桂)」(同書237頁所収)
*[[米長邦雄]]『日本将棋大系 第8巻 六代大橋宗英』(筑摩書房、1979年)
**山本亨介「人とその時代八(六代大橋宗英)」(同書243頁所収)