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== 概要 ==
=== 憲政党 ===
[[第2次松方内閣]]が計画した[[地租]]増徴法案に対して同内閣の[[与党]]であった進歩党は与党離脱を決定して、[[野党]]自由党との連携を強めた。これに対して[[松方正義]][[内閣総理大臣]]は[[衆議院解散]]を行って[[第5回衆議院議員総選挙]]に至るが、松方自身は解散当日に[[内閣総辞職]]を行い、急遽[[伊藤博文]]が組閣した[[第3次伊藤内閣]]も[[政権]]運営の見通しが立たないまま、再度解散に踏み切った。
前回総選挙からわずか3ヶ月での再度の解散に両党の反発は高まり、1898年6月22日に両党は合同して新党・憲政党を発足させた。新党は「政党内閣の樹立」「地方自治の発達」「通商貿易の拡大」「産業・鉄道の充実」「国力に見合った軍備増強」「財政基盤の確立」「教育の発達」「皇室及び憲法の擁護」「文官任用令廃止」などを掲げていた。当面総裁は設置せず、旧自由党の[[松田正久]]・[[林有造]]と旧進歩党の[[尾崎行雄]]・[[大東義徹]]の4名が
これを知った伊藤博文は[[元老]]達に対して自分達も新党を結成するか、憲政党に政権を一旦明け渡すことを要求した。だが、[[元老会議]]は両方とも反対したために伊藤は内閣総辞職を行い、元老会議は後継のなり手を見つけられないまま、後者を選択した。
1898年[[6月30日]]、大隈を
だが8月22日、進歩派の尾崎行雄文相が帝国教育会で行った所謂[[共和演説事件]]が起った。これにより両派の抗争に拍車がかかり、これにより、尾崎は文相辞任のやむなきに追い込まれ、大隈はその後継として自派、すなわち同じ進歩派の[[犬養毅]]を奏薦したことによって両派の対立はついに頂点に達した。
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