「マルクス・ファビウス・アンブストゥス (紀元前360年の執政官)」の版間の差分
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{{Infobox 共和政ローマ
|人名=マルクス・ファビウス・アンブストゥス<br>M. Fabius N. f. M. n. Ambustus)
|出生=不明
|死没=不明
|出身階級=[[パトリキ]]
|氏族名=[[ファビウス氏族]]
|官職=[[執政官]]<span style="font-size: smaller">(紀元前360年、356年、354年)</span><br>[[ケンソル]]<span style="font-size: smaller">(紀元前358年)</span><br>[[インテルレクス]]<span style="font-size: smaller">(紀元前352年)</span><br>[[独裁官]]<span style="font-size: smaller">(紀元前351年)</span>
|後継者=[[クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ルリアヌス]]
}}
'''マルクス・ファビウス・アンブストゥス'''({{lang-la|Marcus Fabius Ambustus}}、生没年不詳)は[[紀元前4世紀]]の[[共和政ローマ]]の[[パトリキ]](貴族)出身の政治家で将軍。マルクス・ファビウスは、[[紀元前360年]]、[[紀元前356年]]、[[紀元前354年]]の三度執政官を務めた。この時期は[[アッリアの戦い]](紀元前387年)で[[ガリア]]に大敗したローマが、再建をとげつつある最中であった。
==経歴==
===出自===
父は[[執政武官]]を二度
===最初の執政官 (紀元前360年)===
マルクス・ファビウスは、[[紀元前360年]]、[[紀元前356年]]、[[紀元前354年]]の三度執政官を努めた。この時期は[[アッリアの戦い]](紀元前387年)で[[ガリア]]に大敗したローマが、再建をとげつつある最中であった。マルクス・ファビウス自身も紀元前356年には[[ヘルニキ族|ヘルニキ]]に、紀元前354年には[[ティーヴォリ|ティブル]]に勝利し、前者では[[小凱旋式]]を、後者では正規の[[凱旋式]]を実施する栄誉を得ている<ref>[[ティトゥス・リウィウス]]『[[ローマ建国史]]』、vii. 11</ref><ref>[[凱旋式のファスティ]]</ref>。さらにファルスキ([[:en:Falisci|en]])にも勝利したが、[[タルクイーニア|タルクィニイ]]には敗北した<ref name="whos who">{{cite encyclopedia | author = John Hazel | title = Fabius 1. Ambustus, Marcus | encyclopedia = Who's Who in the Roman World | publisher = Routledge | year = 2002 | isbn = 0-415-29162-3 | page = 105}}</ref>。▼
紀元前360年、執政官に就任すると、担当した[[ヘルニキ族|ヘルニキ]]に勝利した。同僚の[[ガイウス・ポエテリウス・リボ・ウィソルス]]は[[ティーヴォリ|ティブル]]を担当したが、[[ガリア人]]が援軍に駆けつけたため独裁官[[クィントゥス・セルウィリウス・アハラ]]が立てられ、共同して戦い勝利した。アハラは[[凱旋式]]の栄誉を執政官二人に譲り、マルクス・ファビウスは[[小凱旋式]]を行った<ref>[[ティトゥス・リウィウス]]『[[ローマ建国史]]』、vii. 11</ref>。
===ケンソル (紀元前358年)===
[[紀元前356年]]、マルクス・ファビウスはファレリイ([[:en:Falerii|en]])とタルクィニイの[[エトルリア]]連合軍との戦争を担当した。エトルリア軍は蛇と炎をあやつる司祭を同行させ、これを見たローマ兵は当初パニックを起こして自軍陣地に引き返した。ファビウスはこれを恥とし、戦いを再開させた。エトルリア軍は蹴散らされ、その野営地は占領された。この敗北をきっかけに、タルクィニイとファレリイを指導者として全エトルリアが蜂起し、[[テヴェレ川|ティベリス川]]の河口のローマの製塩所へ向かった。同僚執政官の[[マルクス・ポピッリウス・ラエナス]]は[[ガイウス・マルキウス・ルティルス]]([[:en:Gaius Marcius Rutilus|en]])を独裁官に任命し、エトルリア軍に勝利した。▼
おそらく[[紀元前358年]]には監察官([[ケンソル]])に選ばれた。同僚は不明だが21回目のルーストルムを行い、この年二つのトリブス区が追加された。また老年になって元老院
===二度目の執政官 (紀元前356年)===
[[紀元前367年]]の[[リキニウス・セクスティウス法]]により、二人の執政官のうち一人は[[プレブス]](平民)から選ばれることになった。紀元前356年の場合もパトリキであるマルクス・ファビウスとプレブスのマルクス・ポピッリウスが執政官を努めた。また、ガイウス・マルキウス・ルティルスはプレブス出身の最初の独裁官であった([[マギステル・エクィトゥム|副官]]の[[ガイウス・プラウティウス・プロクルス]]もやはりプレブスであった)。ローマでは翌年の執政官を選出する[[民会 (ローマ)|民会]]の時期が近づいていたが、マルクス・ファビウスは出征中であり、パトリキで構成される[[元老院]]は、マルクス・ポピッリウスにもガイウス・マルキウスにも委ねることを好まず、[[インテルレクス]](5日間限定の最高指導者)を選んだ。これは次回の執政官を2名ともパトリキから選ぶためであり、ローマに向かっていたマルクス・ファビウスもこの影響を受けた<ref name="DGRBM"/>。[[紀元前355年]]になって、マルクス・ファビウスは11人目のインテルレクスとなり、リキニウス・セクスティウス法を無視してパトリキ出身の二人の執政官を任命した<ref name="whos who" /><ref>[[ティトゥス・リウィウス]]『[[ローマ建国史]]』、 vii. 17</ref>。この年の執政官は結局両名ともパトリキとなったが、リキニウス・セクスティウス法の廃止はできず、その後は再びプレブスから執政官が選ばれた<ref>[[ティトゥス・リウィウス]]『[[ローマ建国史]]』、vii. 22</ref>。▼
▲[[紀元前356年]]、マルクス・ファビウスはファレリイ([[:en:Falerii|en]])と[[タルクイーニア|タルクィニイ]]の[[エトルリア]]連合軍との戦争を担当した。エトルリア軍は蛇と炎をあやつる司祭を同行させ、これを見たローマ兵は当初パニックを起こして自軍陣地に引き返した。ファビウスはこれを恥とし、戦いを再開させた。エトルリア軍は蹴散らされ、その野営地は占領された。この敗北をきっかけに、タルクィニイとファレリイを指導者として全エトルリアが蜂起し、[[テヴェレ川|ティベリス川]]の河口のローマの製塩所へ向かった。同僚執政官の[[マルクス・ポピッリウス・ラエナス (紀元前359年の執政官)|マルクス・ポピッリウス・ラエナス]]は[[ガイウス・マルキウス・ルティルス]]([[:en:Gaius Marcius Rutilus|en]])を独裁官に任命し、エトルリア軍に勝利した。
▲[[紀元前367年]]の[[リキニウス・セクスティウス法]]により、二人の執政官のうち一人は[[プレブス]](平民)から選ばれることになっていた。紀元前356年の場合もパトリキであるマルクス・ファビウスとプレブスのマルクス・ポピッリウスが執政官を
マルクス・ファビウス[[紀元前351年]]に再びインテルレクスに選ばれ、同年には[[独裁官]](ディクタトル)に就任した<ref name="Ryan">{{cite book | author = Francis X. Ryan | title = Rank and participation in the Republican Senate | publisher = Franz Steiner Verlag | year = 1998 | isbn = 3-515-07093-1 | pages = 173–174}}</ref>。▼
[[紀元前355年]]になって、マルクス・ファビウスは2人目と8人目のインテルレクスとなり、リキニウス・セクスティウス法よりも[[十二表法]]を根拠としてパトリキ出身の二人の執政官を任命した<ref name="whos who" /><ref>[[ティトゥス・リウィウス]]『[[ローマ建国史]]』、 vii. 17</ref>。
▲おそらく[[紀元前358年]]には監察官([[ケンソル]])に選ばれ、また老年になって元老院議長([[:en:princeps senatus|en]])になったとされるが、学者の中にはこれを疑うものもいる(紀元前209年以前は元老院議長は全員がケンソル経験者であったために、この二つの疑問は関連している)<ref name="Ryan" />。
===三度目の執政官 (紀元前354年)===
[[紀元前325年]]、彼の息子である[[クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ルリアヌス]]が、独裁官[[ルキウス・パピリウス・クルソル (紀元前326年の執政官)|ルキウス・パピリウス・クルソル]]の副官である[[マギステル・エクィトゥム]]に任命されるが、この時点でマルクス・ファビウスはまだ存命であった。このとき、クィントゥス・ファビウスは戦いには勝利したものの、その行動は独裁官権限を侵すものだったため、パピリウスは怒り、ファビウスを罰するよう元老院に要請した。マルクス・ファビウスは息子の代理人として元老院とローマ市民に弁明した<ref>[[ティトゥス・リウィウス]]『[[ローマ建国史]]』、viii. 33</ref>。また、紀元前322年にマギステル・エクィトゥムを努めたマルクス・ファビウス・アンブストゥスも彼の息子である。▼
▲
===その後のキャリア===
▲マルクス・ファビウス[[紀元前
===後継者たち===
▲[[紀元前325年]]、彼の息子である[[クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ルリアヌス]]が、独裁官[[ルキウス・パピリウス・クルソル (紀元前326年の執政官)|ルキウス・パピリウス・クルソル]]の副官である[[マギステル・エクィトゥム]]に任命されるが、この時点でマルクス・ファビウスはまだ存命であった。このとき、クィントゥス・ファビウスは戦いには勝利したものの、その行動は独裁官権限を侵すものだったため、パピリウスは怒り、ファビウスを罰するよう元老院に要請した。マルクス・ファビウスは息子の代理人としてパピリウスと論争し、元老院とローマ市民に弁明した。パピリウスは厳罰は免れないとしたが、マルクス・ファビウスも懇願に転じ、人々も助命嘆願を繰り返したため、クィントゥスに職権の停止を命じるだけで済ませた<ref>[[ティトゥス・リウィウス]]『[[ローマ建国史]]』、viii. 33</ref>。また、紀元前322年にマギステル・エクィトゥムを努めたマルクス・ファビウス・アンブストゥスも彼の息子である。
==参考資料==
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*[[ファビウス氏族]]
*[[共和政ローマ執政官一覧]]
*[[古代ローマの独裁官一覧]]
*[[共和政ローマ監察官一覧]]
*[[凱旋式のファスティ]]
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{{s-aft|after=[[マルクス・ポピッリウス・ラエナス (紀元前359年の執政官)|マルクス・ポピッリウス・ラエナス]] I<br/> [[グナエウス・マンリウス・カピトリヌス・インペリオスス]]}}
{{s-bef|before=[[マルクス・ファビウス・アンブストゥス (紀元前381年の執政武官)|マルクス・ファビウス・アンブストゥス]]<br/> [[ルキウス・フリウス・メドゥッリヌス (紀元前381年の執政武官)|ルキウス・フリウス・メドゥッリヌス]]<br/>[[紀元前363年]] '''XX'''}}
{{s-ttl|title=[[共和政ローマ監察官一覧|監察官]]|years=''同僚:不明''<br/>[[紀元前358年]] '''XXI'''}}
{{s-aft|after=[[ガイウス・マルキウス・ルティルス (紀元前357年の執政官)|ガイウス・マルキウス・ルティルス]]<br/> [[グナエウス・マンリウス・カピトリヌス・インペリオスス]]<br/>[[紀元前351年]] '''XXII'''}}
{{s-bef|before=[[ガイウス・マルキウス・ルティルス (紀元前357年の執政官)|ガイウス・マルキウス・ルティルス]] II<br/> [[グナエウス・マンリウス・カピトリヌス・インペリオスス]] II}}
{{s-ttl|title=[[共和政ローマ執政官一覧|執政官]]|years=''同僚:[[マルクス・ポピッリウス・ラエナス (紀元前359年の執政官)|マルクス・ポピッリウス・ラエナス]] II''<br />[[紀元前356年]]}}
{{s-aft|after=[[ガイウス・スルピキウス・ペティクス]] III<br/> [[マルクス・ウァレリウス・プブリコラ]] I}}
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