「天孫降臨」の版間の差分

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国道266号 (会話 | 投稿記録)
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次いで併せて五部(いつとものお)の神を配(そ)えて侍(はべら)しむ(従わせた)、とあり以下がその神である。
 
* [[天児屋命]](あめのこやね)・中臣(なかとみ)の上祖(とおつおや)
* [[フトダマ|太玉命]](ふとだま)・忌部(いむべ)の上祖
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* [[イシコリドメ|石凝姥命]](いしこりどめ)・鏡作(かがみつくり)の上祖
* [[玉祖命|玉屋命]](たまのや)・玉作(たまつくり)の上祖
 
そして皇孫に、「葦原千五百秋之瑞穂国(あしはらのちいほあきのみずほのくに)は、これ我が子孫の王(きみ)たるべき地である。皇孫の汝が行って治めよ。さあ行かれよ。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)んなることまさに天壌(あめつち)と窮(きわまり)無けん(永続するだろう)」と勅した。これが'''天壌無窮'''(あめつちときはまりなし)の神勅である。
 
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以下が天鈿女命と衢神(ちまたのかみ)[[猿田彦]]の問答である。
 
# 天鈿女命:胸をあらわにし、衣の紐を臍(へそ)の下まで押し下げあざ笑い、衢神に向かい立つ。→ 衢神猿田彦:「天鈿女、汝の為す(そんなことをする)は何の故ぞ」と尋ねた。
# 天鈿女命:「天照大神の御子(皇孫)が進む道路(みち)に如此(かく)居(いま)す者有るは誰ぞ。敢て問う」→ 衢神猿田彦:「天照大神の御子、今、まさに降り行くと聞く。故に迎え奉りて相い待つ。我が名は猿田彦大神ぞ」
# 天鈿女命:「汝、我を将(い)て先(さきだち)て行くか、それとも、我、汝に先て行くか」→ 衢神猿田彦:「我、先て啓(みちひらき)て行かん」
# 天鈿女命:「汝は何処(いずこ)に到るや。皇孫は何処に到るや」→ 衢神猿田彦:「[[天津神|天神]]の御子、まさに筑紫の日向(ひむか)の高千穗(たかちほ)の触之峯(くぢふるのたけ)に到るべし。我は伊勢の狭長田(さなだ)の五十鈴(いすず)の川上に到るべし」更に続け、「我の素性を明らかし者は汝なり。故、汝、我を送りて致るべし」
 
その後、天鈿女命還り詣(いた)りて状(かたち)報(かえりこともう)す、とある。そこで皇孫は天磐座(あめのいわくら)を脱離ち、天八重雲を押し分けて、稜威の道別に道別て、天降(あまくだ)る。果して先の期(ちぎり)の如く、皇孫は筑紫の日向の高千穗の触之峯(たかちほのくじふるのたけ)に到る。
 
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'''第九段一書(二)'''では、この時、高皇産霊尊は〜中略〜とあり、以下の神を○○作りと定めた。
 
* 紀国(きのくに)の忌部の遠祖の[[手置帆負神]](たおきほおい):作笠者(かさぬい)と定める
* [[彦狹知神]](ひこさち):作盾者(たてぬい)と定める
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* [[天日鷲神]](あまのひわし):作木綿者(ゆうつくり)と定める
* [[玉祖命|櫛明玉神]](くしあかるたま):作玉者(たまつくり)と定める
 
そして太玉命をして、弱肩(やわかた)に太手繦(ふとだすき)被(とりか)けて御手代(みてしろ)(代表者)とした。また、天児屋命(あまのこやねのみこと)は神事(かむこと)を司る神であった為、[[太占]](ふとまに)の卜事(うらこと)によって仕え奉らしむ、とある。
 
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* [[カミムスビ|神皇産霊尊]]の女(むすめ)幡千幡姫(たくはたちはたひめ)、御子の[[ニニギ|火瓊瓊杵尊]](ほのににぎ)を生むという、とある。
* [[ニニギ|天杵瀬命]](あまのきせ)、[[コノハナノサクヤビメ|吾田津姫]](あたつひめ)を娶りて、(略)とある。
 
この一書では異伝を箇条書きに伝える。
 
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* 次に生まれ出た子を[[天火明命|火明命]]・尾張連(をはりのむらじ)等の始祖
とある。
 
'''第九段一書(二)'''では、その後、神吾田鹿葦津姫、皇孫を見て「妾は天孫(あめみま)の御子を娠(はら)めり。私に生むべからず、」と言うと、皇孫は「たとえ天神(あまつかみ)の御子といえども如何(いかに)ぞ一夜にして人をして娠(はらま)せんや。抑(はた)我が御子に非(あらざる)か。」と言った。それを聞いた木花開耶姫'''【何故か神吾田鹿葦津姫から木花開耶姫に変わっている】'''は大いに恥じ恨んで、、戸無き室を作りて誓いて「我が娠(はらめ)る、これもし他神(あたしかみ)の子ならば、必ず幸(さち)あらず。これ實(まこと)に天孫の子ならば、必ずまさに全(また)く生まれなん。」と言いその室の中に入り火を以ちて室を焚(や)く、とある。
 
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* 次に生みし御子:彦火火出見尊(ひこほほでみ)、または火折尊(ほのおり)
とある。
 
'''第九段一書(三)'''では、まず神吾田鹿葦津姫の火中出産を述べる。
* 最初に炎(ほのお)が明るい時に生まれた子が[[天火明命|火明命]](ほのあかり)である。
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* 火炎(ほのお)衰(しめ)る時、勇ましく進み出て:火折尊(ほのおり):「吾は是(これ)天神(あまつかみ)の子(みこ)、名は火折尊(ほのおりのみこと)。吾が父(かぞ)及び兄(いろね)等、何處(いずこ)に在りや。」
* 火熱(ほとほり)を避りし時、勇ましく進み出て:彦火火出見尊:「吾は是(これ)天神(あまつかみ)の子(みこ)、名は彦火火出見尊。吾が父(かぞ)及び兄(いろね)等、何處(いずこ)に在りや。」
 
然る後に、母(いろは)吾田鹿葦津姫が火燼(ほたくい)(焼け跡)の中から出て来て、就(おもむ)きてことあげ(言葉に出して)、「妾が生める児(みこ)及び妾が身、自(おの)ずから火の難(わざわい)に当(あ)えども、少しも損(そこな)える所無し。天孫(あめみま)豈(あに)見そなわすや」と言う、とある。
 
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* 火折尊(ほのおりのみこと)、または彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
それにより母(いろは)の誓(うけい)がはっきりと示した。方(まさ)(本当)に皇孫の子であったと。しかし豊吾田津姫は皇孫を恨んで共に言わず。(口をきかなかった)皇孫は愁えて歌を詠んだ、とある。
 
'''第九段一書(七)'''では、[[ニニギ|天杵瀨命]](あまのきせ)、[[コノハナノサクヤビメ|吾田津姫]](あたつひめ)を娶りて、御子の[[天火明命|火明命]](ほのあかり)を生む。次に[[ホオリ|火夜織命]](ほのより)。次に彦火火出見尊(ひこほほでみ)という、とある。
 
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『日本書紀』巻3神武紀によると磐余彦(後の[[神武天皇]])が、[[日向国]]の高千穂宮にいた45歳の [[日本書紀#太歳(大歳)記事|太歳]]が[[甲寅]]の歳に、兄弟や皇子に、天祖降跡以来、一百七十九万二千四百七十餘歲(179万2470余年<ref>[[偽書]]とされる[[神道五部書]]のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』では瓊々杵尊は31万8543年、彦火火出見尊は63万7892年、鶿草葺不合尊は83万6042年の治世とされ、計は179万2477年となる。</ref>)が経ったと述べたという。
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