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父は経済学部への進学を希望していたが、1960年[[慶應義塾大学]][[法学部]]に入学し[[国際公法]]を学ぶ。大学卒業後は、[[総合商社]]への就職を夢見ていたが、大学時代「流通革命」([[林周二]]著)を読み就職先に小売業も考えるようになり、学校推薦を受けて当時日本一の百貨店[[大丸]]で形だけの面接を受け、内定を得た。総合商社を受けるため就職活動を続けるつもりだったが、大学から推薦がもらえず断念した<ref name=":0">奥田務「私の履歴書10」,日本経済新聞2015年12月10日</ref>。
 
大丸入社後は、5ヶ月間の研修を経て、大丸京都店の旅行用品売り場を担当したが、雑用の仕事が多く、会社をやめることも考えた。1966年に[[外商]]部門に異動。30代前半で[[ニューヨーク州立ファッション工科大学]]留学と米大手百貨店[[ブルーミングデールズ]]への研修チャンスを得て渡米。帰国後梅田店開設の責任者に選ばれ、大丸梅田で成功を収める。奥田流の百貨店運営術は「梅田学派」と呼ばれた。大丸社長に就任してからは国内不採算店閉鎖、海外の事業撤退、人員削減などを行い、「負の遺産の整理」と「業務オペレーションの改革」などの守りと攻めの改革による経営で大丸は百貨店業界トップクラスの営業利益額と率を達成した。同業[[松坂屋]]との経営統合にあたっても主導的な役割を担った<ref name=":1">{{cite news |title= 【時代のリーダー】奥田 務・J・フロントリテイリング社長 ネアカな理詰めの改革者|author=日経ビジネス|publisher=日経ビジネスオンライン |date=2009-7-13 |url=http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20090723/200755/?rt=nocnt|accessdate=2014-11-14}}</ref>。
 
その他[[関西経済同友会]]代表幹事、[[21世紀臨調]]顧問会議代表、[[関西経済連合会]]副会長、[[MBSメディアホールディングス]]監査役、[[りそなホールディングス]]取締役などをそれぞれ務めている。
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== 社会的活動・発言など ==
'''『変化を目に見える形にする』'''
 
<ref name=":1" />
 
'''『経営を変えるには社員全員の健全な危機意識と高い目標が必要』'''
 
'''『明治時代でも現代でも、会社が潰れそうになる原因は顧客の軽視だ』'''
 
'''『経営改革の成果が出ても、改革を減速しない』'''
 
'''『社員との危機意識のズレがあっても、目の前にある危機を説き続ける』'''
 
== 脚注 ==