「院の御子」の版間の差分

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==経歴==
『玉葉』の記事<ref>『玉葉』寿永3年2月2日の条より「伝え聞く、伯耆国美徳山に院の御子を称するの人あり。生年二十歳、未だ元服せず。件の宮、(中略)先ず伯耆大山に到る。ついで美徳山に移住す。猶、成親卿の子を称す。而して平氏追い落されるの後、其の実を顕わし、院の御子を称し、已に伯耆半国を伐ち取る。海六業戊[彼の国の勢力ある武勇の者なり。]之に付し奉る。但し小鴨基保従わず云々。」</ref>によればこの人物は初め[[院近臣]]の[[藤原成親]]の子を自称していたが、[[寿永]]2年([[1183年]])を境に[[藤原資隆]]の娘を母とする[[後白河天皇|後白河院]]の[[落胤]]を名乗るようになったという。
 
当初は都にあり、[[九条院]]([[近衛天皇]]の[[皇后]])によって養育されていた。[[安元]]2年([[1176年]])[[9月19日 (旧暦)|9月19日]]、九条院が死去すると外祖父の藤原資隆の屋敷で育てられた。15歳の時に逐電し、[[大和国]]を経て各地を転々として、[[伯耆国]][[汗入郡]][[大山寺 (大山町)|大山寺]]、次いで同国[[河村郡]][[三徳山]][[三仏寺]]に移り住んだ。寿永2年頃、同国において反[[平氏]]行動を開始、[[紀成盛|海六成盛]]を中心とする[[武士]]団を味方に伯耆の半分(おそらく伯耆西部)と[[美作国]]の一部を支配下に入れた。『玉葉』には次いでこの人物が使者を[[京都]]へ送り、後白河院より平氏追討の命を受けたことが記されている。