「プファルツ=ツヴァイブリュッケン」の版間の差分

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公国の行政区分は、最終的にはツヴァイブリュッケン、ホンブルク、リヒテンベルク、マイセンハイム、トラーバッハ、カステルラウン、ベルクツァーベルンおよびグッテンベルクの8つに設定され、またそれと同時に、公爵の直轄領も5つの地域に分けられていた。
 
公国の行政の最高機関は「Kabinettskollegium」であり、これは公爵も臨席する評議会だった。公爵家の財務局(Rentkammer)は、財政と山、森林を管理する権限を持っていた。司法と行政に境界はなく、裁判権は法規に基づいて官吏や村役人が行使した。公国における司法の最高機関はツヴァイブリュッケンの高等裁判所だったが、この高等裁判所は現在のプファルツ・ツヴァイブリュッケン上級地方裁判所([[:de:Pfälzisches Oberlandesgericht Zweibrücken|Pfälzisches Oberlandesgericht Zweibrücken]])の前身と言える存在であった。1774年からは帝国裁判所([[:de:Reichskammergericht|Reichskammergericht]])への嘆願が出来なくなったため、この高等裁判所が上訴できる最後の場だった。公国において基本的な裁判の土台となったのは、1605年と1657年に作られた裁判規則で、1724年には刑務所規則が、その後は婚姻規則や相続規則が作られた。しかし、帝国裁判所規則には存在する土地に関する規則は作られなかった。[[アルザス地域圏|アルザス地方]]に存在する領土の一部は、1680年より[[フランス王国|フランス]]が宗主権を主張する地域となり、[[コルマール]]の「Conseil souverain d’ Alsace」が最終的な上訴先となった。
 
公国は1801年に消滅し、最初はフランスに併合された。[[ウィーン会議]]の後、公国の旧領域(アルザス地方に属する地域を除く)は再び[[ヴィッテルスバッハ家]]の領土となり、他の[[プファルツ地方]]の諸地域と一緒に、[[バイエルン王国]]領のライン郡([[:de:Rheinkreis|Rheinkreis]])に編入された。