「アントワーヌ・ド・ラヴァレット」の版間の差分

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'''アントワーヌ・ド・ラヴァレット'''<ref group="注">元は"Valete"であったが、同名のイエズス会士と区別するために改名した。</ref>(Antoine de Lavalette, [[1708年]][[10月26日]] マートラン、- [[1767年]][[12月13日]][[トゥルーズ]])は、[[フランス]]・[[イエズス会]]の[[聖職者]]。[[マルティニーク島]]の[[修道院長]]であり、彼の破産がフランスでのイエズス会[[弾圧]]を招く一因となった。
{{出典の明記|date=2017-11-19}}
'''アントワーヌ・ド・ラヴァレット'''<ref group="注">元は"Valete"であったが、同名のイエズス会士と区別するために改名した。</ref>(Antoine de Lavalette, [[1708年]][[10月26日]] マートラン、- [[1767年]][[12月13日]][[トゥルーズ]])は、[[フランス]]・[[イエズス会]]の[[聖職者]]。[[マルティニーク島]]の[[修道院長]]であり、彼の破産がフランスでのイエズス会[[弾圧]]を招く一因となった。
 
彼は[[1725年]][[10月10日]]にトゥルーズでイエズス会の会員となり、[[1740年]]に[[司祭]]に叙され[[1741年]]にマルティニーク島へ布教に赴いた。
== 経歴 ==
[[1725年]][[10月10日]]にトゥルーズでイエズス会の会員となり、[[1740年]]に[[司祭]]に叙され[[1741年]]にマルティニーク島へ布教に赴いた。
 
[[1754年]]には中南米にあるフランスの所領における布教を統括する修道会長に指名された。
 
彼は布教と併行して[[教会法]]に反する交易<ref group="注">奴隷を使役する[[プランテーション]]農場で収穫された農作物をフランス本国に輸出し、多額の利益を得ていた。</ref>を行ったことを咎められ、審問を受けるために[[パリ]]に召喚された。しかしマルティニーク島当局が彼を支援したためこの件は当面は不問に処せられた。後にこのことが彼の権威の失墜を招く原因の一つとなった。
 
ラヴァレットの事業は重い債務超過に陥っており、財政的な成功を取り戻すために[[ドミニカ]]の広大な土地を買い付ける等、様々な営利活動に手を染めたが失敗し、借金を増やしてしまったのである。
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イエズス会総長、[[:en:Lorenzo_Ricci|ロレンツォ・リッチ]]はこの報せを受け、[[1757年]]に3名の使者をマルティニーク島に派遣したが、全員遭難し現地に辿り着くことができなかった。
 
[[1762年]]の春、ようやくラ・マルシェ神父等4名の使者がマルティニーク島に到着し、ラヴァレット赴任前に布教に携わっていた主祭たちによる法廷を組織した。
ラヴァレットは糾弾され、報告書が[[ローマ]]の主教たちのに提出されるまでの間、全ての教会活動から遠ざけられた。
 
ラヴァレットは彼個人のみが有罪であるという供述書に署名し、その供述の後にイギリスへと渡るとそこで司祭からイエズス会からの追放を告知された。
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== 関連項目 ==
* [[イエズス会]]
* [[ジャック・カゾット]]<ref group="注">ラヴァレット事件でイエズス会の手形が不渡りとなり、5万エキュの損害を受けた。彼のイエズス会提訴が一連の訴訟の発端となった。</ref>
 
== 脚注 外部リンク==
* [http://www.kawai-juku.ac.jp/bunkyo/report_vo3.html 河合塾文化教育研究所『本の森の中で』]
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=== 注釈 ===
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=== 出典 =脚注==
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== 外部リンク ==
* [http://www.kawai-juku.ac.jp/bunkyo/report_vo3.html 河合塾文化教育研究所『本の森の中で』]
 
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