「不知火光五郎」の版間の差分

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[[黒岩重太郎]]一派に所属して脱走し、[[1878年]]9月に三役張出格で復帰するという苦労も味わった。その後も、場所には出ずに同部屋の力士と放浪するなどした。[[1881年]]7月久しぶりに帰参し'''不知火 光右衛門'''の名で三役格張出で出場、6勝1敗1分の成績を残した。上記錦絵はこの頃出たようである。
 
[[1882年]]2月、東上の意志を固め梅ヶ谷の門に入ったが、[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]で行われた東京・大坂合併相撲興行の2日目([[7月11日]])に34歳の若さで急した<ref name="kougorou1"/>。強さを妬まれての毒殺説がある<ref name="kougorou2"/>。墓は嘉麻市の梅林公園内にある安国寺。嘉麻市立上山田小学校では、彼を偲び、「相撲体操」が毎年披露されている<ref name="kougorou2"/>。
 
安国寺の境内には[[1993年]]に建立された不知火光五郎の立派な墓碑がある。「天下無双 大横綱」と彫られてはいるが実力者ではあったものの大阪相撲内でさえ第一人者ではなく(土付かずは新入幕の場所だけ)上記のように横綱土俵入りを行った記録さえないので誇大な肩書と言わざるを得ない。もちろん[[横綱土俵入り|不知火型土俵入り]]の始祖であるはずもなく墓碑を訪れた観光客が8代横綱[[不知火諾右衛門]]や11代横綱[[不知火光右衛門]]と勘違いする例が多いようである。(公認横綱の2人は共に熊本県出身)