「瀋陽市」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Boyi96 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
53行目:
|footnotes =
}}
'''瀋陽市'''(しんようし/シェンヤンし、[[中国語]]:沈阳市、[[英語]]:Shenyang、[[満州語]]:simiyan hoton、šen yang hecen<nowiki/><ref>『満洲実録 巻八』 ——四王迎至'''沈陽'''北岡,宴之。 ——'''šen yang hecen'''({{MongolUnicode|ᡧᡝᠨ<br>ᠶᠠᠩ<br>ᡥᡝᠴᡝᠨ}}) i amargi ala de acafi amba sarin sarilafi gajime jidere de,……</ref>、mukden hoton)は、[[中華人民共和国]][[遼寧省]]の[[省都]]。欧米諸語では、'''ムクデン'''(mukden)の名もよく用いられる。市名は、「瀋水ノ陽」の意味で、市内の南部を流れる[[渾河]]の古名・瀋水の北に位置することから由来する。
瀋陽市の常在人口は825万人(その中、都市部人口625万人)、従来より東北地方の最大規模の都市であり、東北地方の経済・文化・交通および商業の中心地である。
北京から東北3省、朝鮮半島へ繋ぐ枢要地を占めるため、高速道路、高速鉄道・鉄道在来線が放射線状で密集しており、東北地方の最大級の鉄道と空路の運輸能力を持つ。
瀋陽を中心に、周辺の鞍山、撫順、営口、鉄領などの衛星都市と瀋陽経済区を形成している。「一朝発祥の地、二代帝王の城」のように言われ、清の時代を中心とした遺跡が多数残っている。[[国家歴史文化名城]]に指定される観光都市である。2017年末現在、瀋陽市で居住してる人口は830万人も超えて、中国東北地方の最大都市
 
 
== 歴史 ==
 
=== 古代 ===
瀋陽の歴史は大変古く、7200年前には定住集落([[新楽遺跡]])があったことが知られている。その後はしばらく地域の重要地方都市的な位置にあった。
 
[[唐|唐代]]は[[瀋州]]が置かれ、[[元 (王朝)|元代]]には[[瀋陽路]]、[[明|明代]]には[[瀋陽中衛]]が設置された。
 
=== 清朝 ===
[[17世紀]]初、[[サルフの戦い]]に勝利した[[満州民族|満洲族]]の[[ヌルハチ]]は[[後金]]を建国、瀋陽を都城と定め、[[1634年]]([[天聡]]8年)には'''盛京'''([[満州語]]:mukden hoton、ムクデン・ホトン)と改称された。その後[[清]]と国号を改めた後金は[[1644年]]([[順治]]元年)に[[明|明朝]]の滅亡後の全部の中国を支配し、[[北京市|北京]]に[[遷都]]するが、盛京はその後も副都とされた。[[1657年]]には'''奉天府'''(abkai aliyangga fu)が設置され、形式的ながら中央政府に準拠した官制が整備され、現在でも[[ホンタイジ]]時代に主要部分が建設された[[瀋陽故宮]]が残っている。[[1664年]]([[康熙]]3年)には'''承徳県'''erdemu be aliha hiya)が新設され、奉天府の府治とされた。
 
[[19世紀]]後半以降、それまで[[漢民族]]の移動が認められなかった[[満州|満洲]]が、[[ロシア帝国]]の[[南下政策]]に対抗すべく、禁地政策が解禁され開発が急速に推進されると、瀋陽は地域の中心としての役割を担うようになった。[[1903年]]には[[東清鉄道]]南満州支線が完成してロシア帝国の勢力下に入り、[[日露戦争]]中の[[1905年]]、[[奉天会戦]]の舞台となる。
 
[[1910年]]([[宣統]]2年)には承徳県が廃止され、県域は奉天府の直轄とされ、[[1912年]]([[中華民国暦|民国]]元年)、[[辛亥革命]]により清朝が滅亡すると、2月に'''承徳県'''と改称されたが、河北省に同名の[[承徳県]]が存在したことから5月には'''瀋陽県'''と改称された。その後は[[中華民国臨時政府]]を巡る混乱の中、[[1923年]](民国12年)には'''[[奉天市]]'''が設置され[[遼寧省 (中華民国)|奉天省]]の省会とされた。[[1929年]](民国18年)にはそれぞれ'''瀋陽市'''、[[遼寧省 (中華民国)|遼寧省]]と改称されている。その後は[[張作霖]]や[[張学良]]を代表とする[[奉天軍閥]]の拠点となった。しかし鉄道駅を中心とする市街地の大半は[[南満州鉄道|南満洲鉄道]]の付属地とされ、日本が行政権や警察権を掌握していた。
 
[[19世紀]]後半以降、それまで[[漢民族]]の移動が認められなかった[[満州|満洲]]が、[[ロシア帝国]]の[[南下政策]]に対抗すべく、禁地政策が解禁され開発が急速に推進されると、瀋陽は地域の中心としての役割を担うようになった。[[1903年]]には[[東清鉄道]]南満州支線が完成してロシア帝国の勢力下に入り、[[日露戦争]]中の[[1905年]]、[[奉天会戦]]の舞台となる
 
=== 中華民国 ===
[[1931年]][[満州事変|満洲事変]]により[[関東軍]]に占領されると、'''奉天市'''と再度改称、[[1945年]](民国34年)、[[ソ連対日参戦]]による[[満州国]]の崩壊でソ連軍占領下で[[中国共産党]]が進出し、'''瀋陽特別市'''と再改称されて満州族の{{仮リンク|白希清|zh|白希清}}が市長に任じられる。その後、[[ソ連軍]]撤退を受け[[1946年]]から[[国民政府]]の支配下に入り、[[1947年]]には[[直轄市 (中華民国)|直轄市]]に指定されたが、[[国共内戦]]の結果[[1948年]][[11月2日]]には再度中国共産党の支配下に入った。
その後は[[中華民国臨時政府]]を巡る混乱の中、[[1923年]](民国12年)には'''[[奉天市]]'''が設置され[[遼寧省 (中華民国)|奉天省]]の省会とされた。[[1929年]](民国18年)にはそれぞれ'''瀋陽市'''、[[遼寧省 (中華民国)|遼寧省]]と改称されている。その後は[[張作霖]]や[[張学良]]を代表とする[[奉天軍閥]]の拠点となった。しかし鉄道駅を中心とする市街地の大半は[[南満州鉄道|南満洲鉄道]]の付属地とされ、日本が行政権や警察権を掌握していた。
 
==== 満州国時期 ====
中華人民共和国が成立した[[1949年]]には中央直轄市に昇格、[[1954年]]に地級市に改編され遼寧省の省会として現在に至る。以上の歴史原因より、未確認のままの残留邦人が多数住んでいる。
[[1931年]][[満州事変|満洲事変]]により[[関東軍]]に占領されて、[[満州国|日本の植民地]]になって、[[関東軍]]の[[土肥原賢二]]を首班とする奉天市政府が成立した。同年10月15日、[[趙欣伯]]が奉天市市長に就任している。[[1937年]]([[康徳]]3年)3月26日、市政が公布され統治範囲が確定している。[[瀋陽県]]も当初奉天市に位置していたが、[[1944年]](康徳11年)1月1日に分割され奉天市と[[撫順市]]に編入された'''奉天市'''と再度改称、[[1945年]](民国34年)日本敗戦後、満州国も日本の支持がなくなて崩壊した、それと共に奉天市政府も自然消滅
 
==== 国共内戦時期 ====
満州国時代の地図から見られるように、市内は大きく東・西の2部分に分かれる。
東北光複の後、中華民国政府は[[1947年]]に再びに瀋陽と改称し、[[直轄市 (中華民国)|直轄市]]とも指定したが、[[国共内戦]]の結果[[1948年]][[11月2日]]には中国共産党の勢力圏に入った。
東半分は、旧城郭を中心とした地域;
西半分は、満鉄付属地を中心とした地域。
現在も、その構図は大して変わっていない。
 
=== 中華人民共和国 ===
中華人民共和国が成立した[[1949年]]には中央直轄市に昇格、[[1954年]]に地級市に改編され遼寧省の省会として、1994年地級市から副省市に昇格して、現在に至る。中華人民共和国初期、以上の歴史原因より、未確認のままの残留邦人が多数住んでいた。2004年に、'''[[瀋陽故宮]]'''ならびに[[福陵|東陵]](清太祖'''[[ヌルハチ]]'''の墓廟)、[[昭陵 (清)|北陵]](清太宗'''[[ホンタイジ]]'''の墓廟)などが「北京と瀋陽の明・清王朝皇宮」というかたちでユネスコ世界遺産に追加登録された。
 
== 気候 ==