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1906年に休職期間が満期となり高等商業学校退官。給与が出ないため[[小田原市|小田原]]の[[左右田喜一郎]]別宅に住み、[[高橋作衛]]、[[坂田重次郎]]、[[本多熊太郎]]、[[佐藤尚武]]の斡旋で[[外務省]]の翻訳の仕事を行い生活する。
 
後に駿河台に下宿。[[本多熊太郎]]の斡旋、[[名取和作]]らの尽力により、1905年から1918年まで[[慶應義塾]]教授。慶應義塾では[[小泉信三]](経済理論、[[文化勲章]]、元慶應義塾塾長)、[[高橋誠一郎]]([[経済学史]]、文化勲章受章者)らを育てた。1918年[[三浦新七]]や左右田喜一郎らの斡旋で東京高等商業学校教授に復帰、1920年東京高商の大学昇格に伴い東京商科大学(現・一橋大学)教授に就任。1922年4月7日、[[帝国学士院]]会員となる<ref>『官報』第2902号、大正11年4月8日。</ref>。1923年[[内務省]][[社会局]][[参与]]に就任。同年の[[関東大震災]]直後に自ら学生達を引き連れ、[[失業率]]の[[調査]]を1万324世帯(約3万6000人)を対象に8日間かけて行い、その結果を基に[[東京]]全体の[[失業率]]を推計し、[[国]]や[[東京市]](現在の[[東京都]])に対し復職のきめ細やかな支援の必要を訴えた。また著書『営生機会の復興を急げ』のなかで、「復興事業の第一は、[[人間]]の[[復興]]でなければならない」と[[関東大震災]]を具体例として、以前から[[提唱]]していた[[生存権]]の必要性を唱えた。1928年[[黒田清輝]]に次ぎ日本人として二人目の[[フランス学士院]]文科部外国会員、[[レジオンドヌール勲章]]受章。1930年[[糖尿病]]で慶應病院に入院、[[虫垂炎]]で死去。
 
== 業績 ==
[[社会政策学会 (日本 1897年)|社会政策学会]]の中心メンバーとして活躍、[[大正デモクラシー]]期には[[吉野作造]]とともに[[黎明会]]を組織し、[[民本主義]]の啓蒙につとめる。[[第一次世界大戦]]後は[[マルクス主義]]に対し批判的立場から、民本主義、[[自由主義]]に立ち、[[政府]]による社会・労働問題の解決を主張、[[河上肇]]と論争した。日本における[[福祉国家論]]の先駆者とされる。また[[内務省 (日本)|内務省]]社会局参与として政策立案も行った。