「楢山 (秋田市)」の版間の差分

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[[久保田藩]]主[[佐竹氏]]の居城である[[久保田城]]の南部に位置した城下町と近郊農村を地区の前身とする。楢山とは金照寺山の古名であり、山麓の農村である楢山村の名は、[[天正]]19年正月17日(1591年2月10日)の『豊臣秀吉朱印蔵入帳写』に記された「なら山村・牛島村 272石余」が初見である。佐竹氏入部以前の楢山村は、川尻村と並んで太平川下流右岸の中核的な集落を形成していたものと考えられている<ref name="地名辞典5-494">「角川日本地名大辞典 5 秋田県」p.494。</ref>。楢山村の中心集落は、現在の楢山大元町付近にあった<ref name="地名辞典5-726">「角川日本地名大辞典 5 秋田県」p.726。</ref>。
 
現在は旭川の左岸が楢山、右岸は旭南・[[川元]]を挟んで離れたところが[[川尻 (秋田市)|川尻]]と地区が別れているが、[[享保]]15年(1730年)の『六郡郡邑記』で川尻村について「川辺郡牛島村との川境」と書かれていることから、もともとは旭川左岸も広い範囲が川尻村であり、楢山武家屋敷町の多くは川尻村から町割されたことが判る<ref name="図説久保田城下町の歴史135">「図説 久保田城下町の歴史」p.135。</ref>。武家屋敷の町割が進むに連れて川尻村は縮小していき、左岸で最後まで残った川尻は、1990年(平成2年)まで存在した「川尻町字川口境」である<ref name="図説久保田城下町の歴史82">「図説 久保田城下町の歴史」p.82。</ref>(現在の楢山川口境)。1966年(昭和41年)の住居表示実施以来、大字楢山(旧楢山村)の北部は中通・南通・東通という他地区に編入されたが、もともとの大字楢山は秋田駅所在地や西口商店街(アゴラ広場付近)までも含んでいた。
 
楢山武家屋敷は、[[寛永]]6年(1629年)に町割が開始された<ref name="図説久保田城下町の歴史82" />。亀ノ丁郭の南に隣接し、旭川と太平川以外の堀や土塁を持たない外郭で、主に小禄の家臣や足軽が居住した<ref name="図説久保田城下町の歴史82" />。『秋田昔物語』に「楢山は敵付に候間屋敷等は不及申、樹木にても植不申様に天英公様(初代藩主・[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]])も御意有之候、万一之時は御焼払候はゞ御人数を御出し可相成候間、屋敷取立候得との御意にて取立候由」とあり、[[保戸野]]や川口とともに城下防衛の最前線であった<ref name="図説久保田城下町の歴史82" />。