「堤義明」の版間の差分

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=== 西武王国を築く ===
[[1978年]]に[[福岡野球|クラウンライターライオンズ]]を買収し[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]のオーナーとなる([[日本プロフェッショナル野球協約|野球協約]]で複数球団の株式所有が禁じられているため[[横浜DeNAベイスターズ]]の前身である大洋球団の株式を売却。[[飛鳥田一雄]]横浜市長の要請で[[横浜スタジアム]]の建設費用も西武グループが融資していた)。西鉄後期や太平洋クラブ、クラウンライターと下位に甘んじていたライオンズだが、西武ライオンズ以降は最新鋭かつ充実した設備の導入や、当時監督だった根本陸夫に堤義明は「全てまかせるからやってくれ」という指示を出し、実際にチームづくりは監督の専権事項とし、フロントに口を出させないなどの改革の成果から徐々に順位を上げ、1982年に24年振りの日本一に輝くと、その後リーグ優勝5連覇、日本一3連覇などリーグ優勝計16回、日本一計10回に輝いた。また、人気面でも子供が好むブルーや[[手塚治虫]]の[[ジャングル大帝]]のレオをチームカラーやシンボルマークに採用するなどイメージを一新。レオのキャラクター商品は人気を集め、特に帽子は昭和54年から9年間で500万個も発売されるなど、関東の子供の間では読売ジャイアンツの帽子と人気を二分するほどであった<ref>[西武のすべて 成島忠昭 日本実業出版社 P105]</ref>。サービス面でも従来の球場は前試合ゴミが多く残り、トイレ悪臭が座席にまで臭うほど汚かったが、「ホテルなみ義明トイレをつくれ」という指示のもと、清掃要員を大幅に増員。客席も既存他球場の座席幅45㎝から西武球場では50㎝と大幅に拡大して、ゆったり清潔に観戦できるようにした。そして、西鉄時代から凋落の一途を辿っていたライオンズの観客動員入場者数は、買収前の70万人から西武ライオンズ発足初年度には100万人を突破し、以降パ・リーグ最高入場者数を更新し続け、昭和63年には190万人を記録するなど「黄金時代」を築き上げた。寮に入る選手にアンケートを実施し、壁紙やカーテン、絨毯の色など希望通りの内装にした。[[清原和博]]をとにかくかわいがり、球団に対しても『清原をマスコミやスキャンダルから守れ』と厳命し、ベンチの人間に対しても清原に都合の悪い采配ぶりなら激怒したとのこと。清原のスキャンダルが週刊誌を賑わせるたびに、グループ内部の社員が怒鳴られた<ref>[http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/174860/2 堤オーナーに溺愛されて 清原容疑者の“やりたい放題”伝説] - 日刊ゲンダイ 2016年2月7日]</ref>。後に清原が失墜したことから清原をダメにしたA級戦犯ともいわれている<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/8618622/ 「西武時代から……?」薬物疑惑の番長・清原和博を“甘やかした”元凶とは] - 日刊サイゾー 2014年3月11日]</ref><ref>[https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/174860 堤オーナーに溺愛されて 清原容疑者の“やりたい放題”伝説|野球|スポーツ|日刊ゲンダイDIGITAL]</ref>。
 
[[プリンスホテル]]は品川や高輪・赤坂・新宿・サンシャインシティ・新横浜・幕張・大津・札幌・広島などで次々と大型ホテルを開業させ、[[苗場プリンスホテル|苗場]]、[[富良野市|富良野]]、[[軽井沢町|軽井沢]]、[[箱根町|箱根]]、[[ニセコ町|ニセコ]]、[[雫石町|雫石]]、[[嬬恋村|万座]]など西武が開発したリゾート地でも開業や増床を進めたことにより、1994年には2万室を超えるなど当時日本一のホテルチェーンになるまで成長した。赤坂・幕張・大津・パークタワー・横須賀は[[丹下健三]]、軽井沢・下田・六本木・函館大沼・札幌は[[黒川紀章]]、箱根・高輪・新高輪・京都宝ヶ池・横浜・三養荘(増築)は[[村野藤吾]]など一流の建築家に設計を依頼している。
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ゴルフ場は、[[軽井沢72ゴルフコース]]、[[川奈ホテルゴルフコース]]、[[武蔵丘ゴルフコース]]など29を数える。国内資本ではゴルフ場数日本一である。
 
事業所には[[富良野]]や[[雫石]]、[[鰺ヶ沢町|鰺ヶ沢]]、[[ニセコ]]、[[広島]]、[[北九州]]、[[阿蘇]]、アラスカ・アリエスカ、ハワイ・マウイなど現地自治体や企業から要請されて進出したケースも多い。これは地元の反対がある所に進出しても事業として成功しないという彼の考え方で、採用や仕入れを地元の出身者や業者にすることによって、地方の出稼ぎ減少や地域の活性化、税収増に大きく貢献した。
広島では倒産した造船所を含む土地を広島県や広島市から要請されて進出した際、契約には造船部門を残す義務は無かったが、堤義明の配慮で残すことになり、働いていた社員も失職することなく、西武グループの造船部門の社員として働くことになった。