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=== 福田派 ===
[[ファイル:Takeo Fukuda 1977 adjusted.jpg|thumb|right|180px|[[福田赳夫]]]]
「十日会」([[岸信介]]派)の分裂を受けて、[[福田赳夫]]を中心として[[1962年]]に結成された「党風刷新連盟」(結成当初は「党風刷新懇話会」)が起源<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2301J_T20C12A1000000/ 親台湾派議員の総帥に 「群雀中の一鶴」灘尾弘吉(4)]</ref><ref>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/nenpouseijigaku1953/18/0/18_0_34/_pdf 自由民主党の組織と機能]</ref>。[[1970年]]11月に時の首相・[[佐藤栄作]]に勧められ「紀尾井会」、通称福田派が派閥として正式に旗揚げされた。
 
[[1972年]]まで7年に及んだ[[佐藤栄作政権内閣]]の後継をめぐるいわゆる「ポスト佐藤」の争いにおいて、佐藤の意中の人は福田であったが、政権末期に田中の猛追を受け、結局総裁選で敗れた。この挫折を機に、領袖福田のもと、[[木曜クラブ]](田中派)と「[[角福戦争]]」と呼ばれる激しい派閥抗争を繰り広げたが、福田自身が「派閥解消」論者であり、必ずしも派閥活動に積極的でなかったこともあって伸び悩み、[[1976年]]に悲願の福田赳夫政権誕生にこぎ着けるものの2年後には大平・田中連合の前に総裁選で敗北した。
 
[[1972年]]、総裁選で敗れた直後に[[周山会]](保利グループ)と[[春秋会]](園田派)を統合して「八日会」へと名称変更、1976年末、[[福田赳夫内閣]]の発足にあたり派閥解消を提唱、率先して八日会を解散したが、福田退陣後に再結成の機運が高まり、[[1979年]]1月に'''清和会'''を結成した。出典は、[[東晋]]の[[元帝 (東晋)|元帝]]が[[詔]]で[[諸葛恢]]の統治を「政清人和(清廉な政治でおのずから人民を穏やかにした)」と称賛した故事による(『[[晋書]]』諸葛恢伝)。この旧「清和会」は略称ではなく正式名称である。[[1984年]]に[[自由革新同友会]]([[石原慎太郎|石原]]派・旧[[中川一郎|中川]]派)を吸収する(後の志帥会の源流。なお、[[古屋圭司]]の養父・[[古屋亨]]は先行離脱し福田派に移籍していた)。