「ニキ・ラウダ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎エピソード: 誤字修正
→‎エピソード: 出典を追記
107行目:
*フェラーリ入りして最初のテストで、感想を聞かれると「ひどいマシンだ」と切り捨てた(当時のフェラーリではマシンの批判は禁句だった)。「フロントサスペンションを直してほしい」と要求すると、エンツォ・フェラーリは「よかろう、ただし1秒速く走れなければ、お前はクビだ」と告げた。ラウダは手直ししたマシンで1秒以上速く走り、有言実行ぶりを示した<ref>『スクーデリア・フェラーリ 1947-1997 50年全記録』p103 1998年、ソニーマガジンズ</ref>。
*名誉に執着が無く、地元のガソリンスタンドで代金代わりにF1の優勝トロフィーを渡したこともあった。
*1976年のニュルブルクリンクでの大事故では、病院では助かる見込みが少ないと思われ、神父を呼んで臨終の儀式まで行われていた。ラウダは「冗談じゃない、死んでたまるか」と妻の呼びかけで薄れる意識を保とうとした。その後、エンツォにイタリアグランプリからの復帰を申し出たが「ダメだ。もし最終的に世界チャンピオンになれなかった時、事故のせいにできるから、あまり早く復帰しない方が良い」と一時は断られた。また、豪雨の最終戦(初の日本グランプリ)で自らマシンを降りた際には、メカニックに「また死に損なうのは御免だ」と告げたという
*事故前の記憶もラウダ曰く「[[ブラックホール]]」となっており、最後の記憶として思い出せるのは事故の2日前の夜見たテレビのスポーツニュースショーを見た記憶だという(その番組ではニュルブルクリンクは安全性が低いと発言したラウダを臆病者と批判する内容を放映していた)<ref name="f1gpsp_9312lauda">F1新時代・ヒーローの肖像 F1GP特集 1993年12月号 14ページ ソニーマガジンズ</ref>。
*1977年、エンツォと口論の末フェラーリから離脱した後、自家用飛行機で帰ろうとするが、航空管制塔から離陸許可が出なかった。実は既にラウダがフェラーリを辞める話はイタリア人の耳に入っていたため、フェラーリを辞めて行くドライバーに対する管制官からの嫌がらせだった。それに対してラウダは「私は来年、イタリアのアルファロメオエンジンを積むブラバムに行くんだ、イタリアとは縁が残ってるよ」と答えたところ、管制官は離陸を許可した。
*その後、エンツォにイタリアグランプリからの復帰を申し出たが「ダメだ。もし最終的に世界チャンピオンになれなかった時、事故のせいにできるから、あまり早く復帰しない方が良い」と一時は断られた。また、豪雨の最終戦(初の日本グランプリ)で自らマシンを降りた際には、メカニックに「また死に損なうのは御免だ」と告げたという。
*1度目の引退から2年経った1982年に[[フォーミュラ1|F1]]に復帰する際、マクラーレンのメインスポンサーである[[マールボロ (たばこ)|マールボロ]]の重役から「契約金はいくら欲しいんだ」と聞かれ、どのドライバーよりも遙かに高額の契約金を口にした。それに対して重役は「まだ誰よりも速く走る自信があるのか?」と質問するとラウダは「この金額は、ニキ・ラウダというブランドに対して支払われる対価だと考えて欲しい。だからあなた方は私のドライバーとしての能力には1ドルだけ支払ったと考えてもらいたい。残りは私という個人への投資です。私が広告塔になるPR効果は私が提示した金額よりはるかに高いと思いますよ」と答え、これをマールボロ側も了承した。そしてラウダは1984年に3度目となるワールドチャンピオンを獲得しマールボロの担当者に「価値」を証明した<ref><最速王伝説>ニキ・ラウダ、不屈の闘志 - [[Sports Graphic Number]] PLUS 20世紀スポーツ最強伝説⑥ March 2000「F1 未知への疾走」p78 [[文芸春秋]] </ref>。
*事故からの復帰時には「恐怖心はない」とマスコミに言い続けたが、引退後に出版した[[自伝]]では「あれは嘘だった。でもライバルに弱みを見せるのは絶対に避けたかったので、そういう事にしておいた。」「実際にはモンツァでは恐怖で体が凍り付いていたし、特に金曜日は雨だったからとても怖かった。すぐにピットでマシンから飛び降りた」「結局、事故前と同じくらい速く走ろう、などと考えることは止めた。気楽に、ゆっくり段々とスピードアップすれば良いと考え直してスタートすることにしたら、4位でゴールできた」と事故後に存在した恐怖心を告白している<ref name="f1gpsp_9312lauda"></ref>。
*レーサーとしての現役を引退した後、ラウダは[[ラウダ航空|航空会社]]を起業したが、[[1991年]]に[[ラウダ航空004便墜落事故]]が発生。経営者の立場だったラウダは事故を聞きつけると現場に駆けつけ、惨状を目の当たりにした。彼は事故調査委員会のメンバーではなかったが、自ら進んで事故原因の徹底究明に尽力した。その行動には、前述の1976年ドイツグランプリ決勝での大事故の経験が根幹にあったと言える。結局は76年の事故原因がわからず仕舞いだったため、ラウダ航空004便の事故原因は何としても解明しなければならないと彼を決意させた。ラウダ自身が曖昧さを嫌うことを示したエピソードと言える。
*1977年、エンツォと口論の末フェラーリから離脱した後、自家用飛行機で帰ろうとするが、航空管制塔から離陸許可が出なかった。実は既にラウダがフェラーリを辞める話は報道されイタリア人の耳に入っていたため、フェラーリを辞めて行くドライバーに対する管制官からの嫌がらせだった。それに対してラウダは「私は来年、イタリアのアルファロメオエンジンを積むブラバムに行くんだ、イタリアとは縁が残ってるよ」と答えたところ、管制官は離陸を許可した。
*[[1992年]]からフェラーリのアドバイザーとしてグランプリ開催中のピットに姿を見せるようになったが、当初は自らの役割を「自分が見て思ったことを情報としてフェラーリに提供するだけだよ。助力はできるけど共闘はしないという立場だと思う。私には飛行機のビジネスがあるしね」と話し、「フェラーリから報酬は1ドルももらっていないし、単にアドバイザーだよ。」とチームと一定の距離を保つ発言をしていたが、1年後の1993年スペインGP開催期間に[[赤井邦彦]]が行ったインタビューでは「フェラーリは真のカリスマ性を持っている。F1に正しい方向性を与えるのはフェラーリ以外にはありえない。だから平日でも[[マラネッロ]]に行ったり、一生懸命やってるよ」「現役時代よりも今が一番フェラーリに深く関わっている。私は何か頼まれたら全力でそれを行う人間なんだよ」<ref name="f1gpsp_lauda"></ref>と話しており、徐々に熱意の入った活動となっていたことが伺える。
*1度目の引退から2年経った1982年に[[フォーミュラ1|F1]]に現役復帰する際、マクラーレンのメインスポンサーである[[マールボロ (たばこ)|マールボロ]]([[フィリップモリス]])の重役から「契約金はいくら欲しいんだ」と聞かれ、どのドライバーよりも遙かに高額の契約金を口にした。それに対して驚いた重役は「まだ誰よりも速く走る自信があるのか?」と質問するとラウダは「この金額は、ニキ・ラウダというブランドに対して支払われる対価だと考えて欲しい。だからあなた方は私のドライバーとしての能力には1ドルだけ支払ったと考えてもらいたい。残りは私という個人への投資です。私が広告塔になるPR効果は私が提示した金額よりはるかに高いと思いますよ」と答え、これをマールボロ側重役も了承した。そしてラウダは1984年に3度目となるワールドチャンピオンを獲得しマールボロ自分担当者に「価値」を証明した<ref><最速王伝説>ニキ・ラウダ、不屈の闘志 - [[Sports Graphic Number]] PLUS 20世紀スポーツ最強伝説⑥ March 2000「F1 未知への疾走」p78 [[文芸春秋]] </ref>。
*レーサーとしての現役を引退した後、ラウダは[[ラウダ航空|航空会社]]を起業したが、[[1991年]]に[[ラウダ航空004便墜落事故]]が発生。経営者の立場だったラウダは事故を聞きつけると現場に駆けつけ、惨状を目の当たりにした。彼は[[事故調査委員会]]のメンバーではなかったが、自ら進んで事故原因の徹底究明に尽力した。その行動には、前述の1976年ドイツグランプリ決勝での大事故の経験が根幹にあったと言える。結局は76年の事故原因わからず仕舞いだったため、ラウダ航空この004便の事故原因は何としても解明しなければならないと彼を決意させた。ラウダ自身が曖昧さを嫌うことを示したエピソードと言える。
*[[1992年]]からフェラーリのアドバイザーとしてグランプリ開催中のピットに姿を見せるようになったが、当初は自らの役割を「自分が見て思ったことを情報としてフェラーリに提供するだけだよ。助力はできるけど共闘はしないという立場だと思う。私には飛行機のビジネスがあるしね」と話し、「フェラーリから報酬は1ドルももらっていないし、単にアドバイザーだよ。」とチームと一定の距離を保つ置く発言をしていたが、1年後の1993年スペインGP開催期間に[[赤井邦彦]]が行ったインタビューでは「フェラーリは真のカリスマ性を持っている。F1に正しい方向性を与えるのはフェラーリ以外にありえない。だから平日でも[[マラネッロ]]に行ったり、一生懸命やってるよ」「現役時代よりも今が一番フェラーリに深く関わってる。私は何か頼まれたら全力でそれを行う人間なんだよ」<ref name="f1gpsp_lauda"></ref>と話しており、徐々に熱の入った活動となっていたことが伺える。
 
=== 人間関係 ===