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[[1972年]]10月、党第5期中央委員会第5回総会で中央委員に選出され、[[1973年]]9月の党第5期中央委員会第7回総会で党中央委員会書記(党組織、宣伝扇動担当)に選出された。さらに、[[1974年]][[2月13日]]の朝鮮労働党第5期中央委員会第8回総会において、政治委員会委員(現:政治局委員)に選出され、翌[[2月14日]]には、金日成の後継者として「推戴」された<ref>既に[[1972年]][[12月22日]]の党第5期中央委員会第6回総会において金正日を「唯一後継者」とする秘密決定がおこなわれている。</ref>。同時期、北朝鮮版[[文化大革命]]<ref>「金正恩氏の後見人、張成沢氏は冷血な忠臣 2万5千人粛清の総責任者!」産経ニュース 2012年1月14日</ref>とも呼ばれる[[三大革命赤旗獲得運動]]を提唱して権力の確立をしていった。
 
ただし対外的には発表されず、金正日は「党中央」としてのみ言及された<ref>金元祚『凍土の共和国』p344。「党中央」の表記が最初に登場したのは『[[労働新聞 (朝鮮労働党)|労働新聞]]』1974年2月14日付社説。</ref>。[[1980年]]には「党中央の明かり」という歌曲が作られ<ref>http://www.naenara.com.kp/ko/art/artist/index.php?4</ref>、金正日崇拝への道ならしがおこなわれた。同年[[10月10日]]の第6回党大会および党第6期中央委員会第1回総会で[[朝鮮労働党中央委員会政治局常務委員会|党中央委員会政治局常務委員]]、中央委員会書記、中央軍事委員会委員に就任し、後継者としての地位を確固なものとした。このとき、金正日は初めて公式に国民の前へ姿を現した。1982年2月に[[最高人民会議]]代議員に選出される<ref>以来、死去するまで最高人民会議代議員を務めた。</ref>。後継者に公認されて内定後初の外遊だった1983年6月の訪中から帰国した際に[[中華人民共和国]]の[[改革開放]]を「社会主義や共産主義を捨てた」「修正主義」と批判した金正日に対して中国の[[鄧小平]]は「なんて馬鹿な奴だ」「世間知らずの小童」と唾棄したことに焦った父・金日成は謝罪を約束してそれを拒む金正日と口論になった<ref>{{cite news |title=【秘録金正日(47)】中国の改革解放を「共産主義捨てた」と一蹴 トウ小平は「なんてばかなやつだ」と激怒|publisher=[[産経新聞]] |date=2015-10-23 |url=http://www.sankei.com/premium/news/151020/prm1510200004-n1.html|accessdate=2016-10-18}}</ref>。
 
後継者としての地位を確立する過程では、腹違いの弟[[金平一]]を推す義母[[金聖愛]]との間に激しい権力闘争があったと言われている<ref>李友情著『金正日入門』より。</ref>。同じ時期に金日成を称える[[プロパガンダ]]が高まっていったことから、父・金日成の[[カリスマ]]化と忠誠合戦を仕掛けることが権力闘争を勝ち抜く彼の方策だったと推測されている。金日成派の独裁化に貢献したと思われることも含め、党内闘争に熟達し、情報統制に長けていると推測されている。これは彼が若い頃に映画局に勤め、父・金日成をカリスマ化するプロパガンダに関係した経験が生かされたと見られることが多い。自らの肉声をほとんど流さないことでも有名で、南北首脳会談以前の肉声は[[1992年]][[4月25日]]に行われた朝鮮人民軍創建60周年の軍事パレードで発した「英雄的朝鮮人民軍将兵諸君に栄光あれ!」というわずか5秒間の音声が唯一であった。