「ツェツィーリエ・ツー・メクレンブルク=シュヴェリーン」の版間の差分
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| 全名 =
| 出生日 = [[1886年]][[9月20日]]
| 生地 = [[File:Flagge Großherzogtümer Mecklenburg.svg|border|25x20px]] [[メクレンブルク=シュヴェリーン|メクレンブルク=シュヴェリーン大公国]] [[シュヴェリーン]]、[[シュヴェリーン城]]
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1886|9|20|1954|5|6}}
| 没地 = {{BRD}}
| 埋葬日 = [[1954年]][[5月12日]]
| 埋葬地 = {{BRD}} [[バーデン=ヴュルテンベルク州]]、[[ホーエンツォレルン城]]
| 配偶者1 = [[ドイツ帝国|ドイツ]]皇太子[[ヴィルヘルム・フォン・プロイセン (1882-1951)|ヴィルヘルム]]
| 子女 = [[#子女|一覧参照]]
| 父親 =
| 母親 = [[アナスタシア
| 宗教 =
| サイン =
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== 生涯 ==
メクレンブルク=シュヴェリーン大公[[フリードリヒ・フランツ3世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ3世]]とその妻でロシア大公[[ミハイル・ニコラエヴィチ]]の娘である[[アナスタシア
ツェツィーリエは人見知りしない性格で瞬く間に新しい環境に慣れ、飾らない人柄のおかげで宮廷の人々からも一般大衆からも熱烈に支持された。当時の新聞や雑誌は、皇太子妃の生来の美しさはもちろんのこと、当世風でありながらエレガントな立ち居振る舞いを称賛した。実際、ツェツィーリエは最先端の流行に非常に敏感なたちで、帽子のコレクションに熱中し、多くのドイツの若い女性や少女たちのファッションの見本となっていた。ツェツィーリエは聡明な女性だったが、彼女は自分の能力を外見を磨くことだけでなく、社会貢献にも発揮した。特に[[女子教育]]の発展に深い関心を寄せ、そのために多くの学校や通りが設立時に彼女の名を冠した(現在でもツェツィーリエの名前を残しているものもある)。
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== 子女 ==
* [[ヴィルヘルム・フォン・プロイセン (1906-1940)|'''ヴィルヘルム'''・フリードリヒ・フランツ・ヨーゼフ・クリスティアン・オーラフ]](1906年 - 1940年)
* [[ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン (1907-1994)|'''ルイ・フェルディナント'''・ヴィクトル・エドゥアルト・アーダルベルト・ミヒャエル・フーベルトゥス]](1907年 - 1994年)
* [[フーベルトゥス・フォン・プロイセン|'''フーベルトゥス'''・カール・ヴィルヘルム]](1909年 - 1950年)
* [[フリードリヒ・フォン・プロイセン (1911-1966)|'''フリードリヒ'''・ゲオルク・ヴィルヘルム・クリストフ]](1911年 - 1966年)
* [[アレクサンドリーネ・フォン・プロイセン (1915-1980)|'''アレクサンドリーネ'''・イレーネ]](1915年 - 1980年)
* [[ツェツィーリエ・フォン・プロイセン|'''ツェツィーリエ'''・ヴィクトリア・アナスタージア・ツィータ・ティーラ・アーデルハイト]](1917年 - 1975年)
== 参考文献 ==
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