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|名称 = 法住寺
|画像 = [[画像:Houjyuuji_01.jpg|260px]]<br />竜宮門
|所在地 = [[京都府]][[京都市]][[東山区]]三十三間堂廻り町655
| 緯度度 = 34|緯度分 = 59|緯度秒 = 15.45
| 経度度 = 135|経度分 = 46|経度秒 = 21.83
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|公式HP名 = 後白河法皇御所聖跡 天台宗 法住寺
}}
 
'''法住寺'''(ほうじゅうじ)は、[[日本]]の[[京都市]][[東山区]]にある[[天台宗]]の[[仏教]]寺院である。
 
 
== 概要 ==
[[平安時代]]中期に[[藤原為光]]によって創設され、その後[[院政]]期にはこの寺を中心に[[後白河天皇|後白河上皇]]の宮廷「'''法住寺殿'''」がいとなまれた。法住寺殿が[[源義仲|木曾義仲]]によって焼き討ちされ、数年を経て後白河上皇も[[崩御]]すると、法住寺は後白河上皇の[[天皇陵|御陵]]をまもる寺として[[江戸時代]]末期まで存続、[[明治|明治時代]]に御陵と寺が分離され現在にいたる。
 
寺内の「身代[[不動明王]](みがわりふどうみょうおう)」像は、平安期の作風とされる。この不動像は寺伝では[[円仁]](慈覚大師)が造立したといわれ、後白河上皇の信仰も篤かった。義仲の放火のさいに、上皇の身代わりとなったと伝えられており、現在も毎年[[11月15日]]には不動会(ふどうえ)が営まれる。
 
また、本寺は[[漫画]]『[[サザエさん]]』の作者・[[長谷川町子]]の[[菩提寺]]でもあり<ref>{{Cite news|date=2008-11-20||url=http://www.kyoto-np.co.jp/info/culture/tanakatakako/081120.html|title=田中貴子の洛中洛外なぞ解き紀行 (2)今様京都 そば・うどん対決|work=[[京都新聞]]||accessdate=20152018-124-1924}} {{ja icon}}</ref>、正門(法住寺門)の[[提灯]]には「'''サザエさん長谷川町子菩提寺'''」の札が掲げられている。長谷川が生前に『[[平家物語]]』ゆかりの地を探訪していた際に「静かでいいところ」として本寺の環境を気に入り、住職と親交を持ったことが縁となって没後に[[遺骨]]の一部が本寺へ分骨された<ref name="hd">[http://kyoto-higashiyama.jp/shrinestemples/hojyuji/ ● 法住寺(ほうじゅうじ)後白河法皇の身代わりになった不動と四十七士の寺] {{ja icon}} - (京都/東山district)</ref>。境内には長谷川直筆の[[サザエさんの登場人物|サザエ・ワカメ・タラちゃん]]を描いた[[色紙]]が展示されている。
 
== 歴史 ==
=== 平安中期 ===
[[988年]]([[永延]]2年)、[[太政大臣]]・藤原為光が法住寺の落慶法要をいとなんだことが『[[日本紀略]]』『[[扶桑略記]]』などにみえる。寺域の釈迦堂には本尊金色丈六[[釈迦如来]]、[[薬師如来]]、[[観音菩薩]]、延命菩薩、如意輪菩薩、法華三昧堂には[[普賢菩薩]]、常行三昧堂には[[阿弥陀如来|阿弥陀世尊]]が安置され、[[円融天皇]]をむかえて豪華な法要がいとなまれた。為光は[[985年]]([[寛和]]元年)に妻と[[花山天皇]]の[[女御]]であった娘を相次いでうしなっており、その菩提を弔う目的でこの寺を創建したという。為光は現世の栄達をすて、ここで念仏三昧の生活をおくった。[[992年]]([[正暦]]3年)、為光の死にあたっては「封戸100戸」が寺に寄進された。為光死後、しばらくのあいだ法住寺は子孫によってまもられていたが、[[1032年]]([[長元]]5年)、[[九条家|九条邸]]から燃えひろがった火災によって焼亡。このあと約120年間、大規模な再建などの記録はみられない。
 
=== 院政期 ===
[[ファイル:Hojyuji Kyoto Japan01-r.jpg|thumb|後白河天皇陵]]
[[1161年]]([[永暦]]2年)から、為光が建立した法住寺を中心とした地域に、為光の寺院を包摂するかたちで後白河上皇の御所がいとなまれる。これが法住寺殿である。その敷地は十余町、[[平家]]をうしろだてにした上皇の権威で、周囲の建物はとりこわされ、広大な敷地に南殿、西殿、北殿の三御所がつくられた。狭義の法住寺殿はこの南殿をいう。南殿には上皇のすまいとともに、東小御堂、不動堂、千手堂がたちならび、広大な池もあった。[[1163年]]([[長寛]]元年)には、蓮華王院([[三十三間堂]])が[[平清盛]]の寄進で南殿の北側に造立された。また[[新日吉神宮|新日吉神社]]、新熊野本宮も法住寺殿内に建立された。[[1176年]]([[安元]]2年)、後白河上皇の[[女御]]・[[建春門院]](平滋子)が亡くなると、女御の御陵として法華堂が建てられた。
 
上皇と平家の栄華を象徴する法住寺殿ではあったが、[[1183年]]([[寿永]]2年)、木曾義仲の軍勢によって南殿に火がかけられ([[法住寺合戦]])、上皇は北の門から新日吉神社へむけ輿にのって逃亡、以後上皇は六条西洞院の[[長講堂]]に移りそこで生涯をおえる。[[1192年]]([[建久]]3年)、上皇の崩御により、焼失した法住寺殿の敷地にあらたに[[法華堂]]がつくられ、上皇の御陵とさだめられた。この法華堂は建春門院の法華堂の南側にあたり、蓮華王院(三十三間堂)に対面して二堂が並立していたと推定されている。建春門院の法華堂は[[14世紀]]には破損がひどかったという記録があり(『[[花園天皇宸記]]』)、現在は、上皇の法華堂のみが残っている<ref>「後白河天皇陵と法住寺殿」 [[山田邦和]] 『院政期の内裏・大内裏と院御所』 pp204 - 221</ref>。
 
=== 鎌倉期から江戸末期まで ===
その後法住寺は後白河天皇の御陵をまもる寺として長く存続した。前述のごとく[[鎌倉時代]]までは建春門院をまつる法華堂、後白河上皇をまつる法華堂が、蓮華王院の東にならびたっていた。時の権力の変遷にともなって法住寺はいくつかの近隣寺院と関係をもった。とくに[[妙法院]]との関係は密接で、上皇が[[比叡山]][[妙法院]]を京都に移した際、妙法院住職に法住寺、新日吉神社を付託し門跡寺院としたという機縁がある。
 
[[豊臣政権]]下では、すぐ北にあった[[方広寺]](大仏)が法住寺や蓮華王院の寺域を包摂するということもあったが、[[江戸幕府|徳川政権]]によって妙法院が重要視されるようになると、妙法院と一体視され、法住寺は妙法院門跡の「院家」として待遇された。妙法院の日記である『妙法院日次記』には、[[江戸時代]]を通じて、法住寺の名前があがっている。また現在は法住寺と分離されている隣接の後白河天皇陵内に「法住寺」と書かれた江戸時代の手水鉢があり、後白河天皇の陵を継続してまもってきたことが知られる。なお妙法院に住持した歴代[[法親王]][[門跡]])の墓所も法住寺境内にあった。
 
また[[元禄]]期には[[大石良雄|大石内蔵助]]がこの法住寺に参拝したと伝えられ、その縁から四十七士木造も安置されている。[[幕末]]に法住寺陵が後白河天皇の御陵ではないと唱えた学者が現れたとき、当時の住持が御陵の真下を掘ったところ記録どおりに天皇の遺骨を納めた石櫃が見つかったと言われている。
 
=== 明治初頭から現在 ===
[[明治|明治時代]]にはいると、後白河天皇陵と妙法院門跡法親王の墓所が寺域から分離され、[[宮内省]]の管轄におかれた。明治の初め、東山渋谷にあった[[佛光寺]]から[[親鸞]]ゆかりとされる阿弥陀像や、[[親鸞]]の木造(そば喰いの像)がうつされている。法住寺は明治期から[[昭和]]にかけて「大興徳院」と寺名が改称されたが[[1955年]](昭和30年)、法住寺に復名。明治時代初頭に後白河天皇陵をまもるという役割は形式上はおわったが、陵におかれている後白河上皇像の模作を[[1991年]]([[平成]]3年)に造立し安置するなど、現在でも密接な関係をもっている。また上皇が愛した[[今様]]の[[歌合せ]]も復元して行われている。
 
== 後白河天皇法住寺陵 ==
[[Image:Goshirakawa-Tenno-Ryo-M1711.jpg|thumb|[[後白河天皇]]法住寺陵]]
法住寺と隣接する。[[宮内庁]]月輪陵墓監区事務所の管轄。
 
== 住所 ==
[[京都市]][[東山区]]三十三間堂廻り町
 
== おもな行事(2005年現在) ==
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== 参考文献 ==
* 『日本歴史地名体系 第27巻 京都市の地名』 下 [[中邦彦]][[1979年]] [[平凡社]] ISBN 4582910122
* 『京都大辞典』 [[佐和隆研]]ほか編 [[1984年]] [[淡交社]] ISBN 4473008851
* 『院政期の内裏・大内裏と院御所』 [[高橋昌明]][[2006年]] [[文理閣]] ISBN 4892595144
<!-- 『後白河法皇御所聖蹟 天台宗「法住寺」』という法住寺編のリーフレットならびに御住職自身による談話も参照しました。 -->