「ヒューストン・アストロズ」の版間の差分

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=== アストロズとして ===
[[Image:Reliant Astrodome.jpg|thumb|250px|[[アストロドーム]]]]
1964196512月1日、地元に[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の宇宙センターがあることから、アストロノーツ([[宇宙飛行士]])を縮めてヒューストン・アストロズに改名した(なおヒューストンには[[NBA]]の[[ヒューストン・ロケッツ]]も存在するが、こちらの前身は[[サンディエゴ]]が本拠地であり、その頃からロケッツという名称だったため、NASAが名前の由来というわけではない)。同年には世界初の屋内型スタジアムである[[アストロドーム]]が開場し、その近未来的な形から大きな注目を集めた。屋内型スタジアムが建設された背景には、地元ヒューストンの高温多湿な気候と、それに伴う[[カ|蚊]]の大量発生が観客や選手を悩ましていたことがあげられ、これらを一挙に解決するための画期的な方法だった<ref name="maj200809"/>。結果的にアストロドームの開場によって、観客数はリーグ9位にもかかわらず前年の725,773人から2,151,470人まで増加し、商業的にも大きな成功を収めることとなった。
 
球団創設2年目位以降6年連続で90敗以上を記録し続けていたが、1969年には東西地区制が導入され、アストロズは[[ナショナルリーグ西地区]]に移動。同年には81勝81敗を記録し、チーム史上初めて勝率5割に乗せるが、地区5位(6チーム中)に終わっている。その後は負け越しが続き、1972年には名将[[レオ・ドローチャー]]が監督に就任。再び勝率5割台に復帰し、一時期は優勝戦線に加わった。しかし、後半戦は失速し、優勝には手が届かず地区3位に終わった。
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その後、1988年限りで40歳を迎えていたライアンを[[テキサス・レンジャーズ]]に放出。ライアンは翌1989年には16勝、301奪三振を記録し、この年には前人未到の5000奪三振を達成。その後300勝、2度のノーヒットノーランを達成するなど、その健在ぶりを示した。逆にチームは低迷し、1990年代中盤まで優勝とは縁のないシーズンが続いた。また、観客減にも悩まされるようになり、移転話も持ち上がったが、こちらは結局実施されなかった。
 
82年・83年には[[日本プロフェッショナル野球組織]]・[[パシフィックリーグ]]及び[[イースタンリーグ]]加盟の[[西武ライオンズ]]期待の若手で大砲候補の[[秋山幸二]]が留学しアリゾナ教育リーグで活躍、86年には同僚でベテランの守護神だった[[森繁和]]も参加。
 
=== キラーB'sの登場 ===
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=== アメリカンリーグへ ===
[[2013年]]からアストロズはナショナルリーグ中地区から[[アメリカンリーグ]]西地区へ移動することになった(初代レギュラー[[指名打者]]としてレイズを退団した[[松井秀喜]]獲得を狙ったが松井自身が引退表明し幻に)<ref>{{Cite web |date=2011年11月19日 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/11/19/kiji/K20111119002058320.html |title=アストロズ ア・リーグ編入 シーズン通し交流戦実施へ |publisher=スポーツニッポン |accessdate=2012-06-16}}</ref>。リーグ再編は1998年に[[ミルウォーキー・ブルワーズ]]が移動して以来のことで、ナショナルリーグからの離脱は[[1899年]]オフに[[クリーブランド・スパイダーズ]]、[[ルイビル・カーネルズ]]、[[ワシントン・セネタース (1891-1899年)|ワシントン・セネタース]](現在の[[ミネソタ・ツインズ]]及び[[テキサス・レンジャーズ]]とは無関係)、[[ボルチモア・オリオールズ (19世紀)|ボルチモア・オリオールズ]]([[ボルチモア・オリオールズ|現存球団]]とは無関係)の4チームが球団削減策により解散して以来のことである。ア・リーグ初年度は終盤に15連敗を喫するなど大不振、全球団で最多の三振を喫し、3年連続100敗以上の111敗で最下位に沈んだ。
 
=== 若手の台頭 ~10年ぶりにポストシーズンへ~ ===
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* [[メジャーリーグベースボール]]
* [[アメリカンリーグ]]
*[[ジョージ・フォアマン]]
 
== 外部リンク ==