「高儼」の版間の差分
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兄の[[後主 (北斉)|後主]]は高儼の聡明さと剛毅さが自らの地位を脅かすことを恐れて、たびたびその権限を削ろうと図った。[[571年]]([[武平 (北斉)|武平]]2年)、後主は高儼を北宮に移させ、5日に1回朝廷に出るのみと定め、それまでのように母の胡太后と毎日会えなくさせた。4月、高儼を[[太保]]に任じ、御史中丞・督京畿を除く兼任の官から全て解任させた。武庫のある北城から高儼を外に移させ、その後に兵権を剥奪した。高儼は[[和士開]]の専横を憎んで、その殺害を決意した。侍中[[馮子ソウ|馮子琮]]は後主を廃位して高儼を立てようと、これに賛同した。高儼は治書侍御史の王子宜に和士開の罪を弾劾させた。領軍の厙狄伏連に和士開を捕らえさせて御史に送らせ、馮永洛に和士開を斬らせた。
高儼はただ和士開を殺すだけのつもりだったが、ここにいたって事態を制御できなくなり、周囲に促されて京畿の軍士3000人あまりを率いて千秋門に駐屯した。後主は[[劉桃枝]]や馮子琮らを派遣して、高儼の入朝を求めたが、高儼は聞き入れなかった。[[斛律光]]の取りなしで高儼はようやく入朝し、一命を赦され、鄴の北城の白馬仏塔に幽閉された。厙狄伏連や高舎洛・王子宜・劉辟
== 人物・逸話 ==
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