「沙苑の戦い」の版間の差分

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Leonidjp (会話 | 投稿記録)
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高歓は宇文泰が沙苑にやってきたと知ると、兵を進軍させて会戦を望んだ。宇文泰は[[李弼]]の進言を容れて、沙苑から東に10里のところの渭水の屈曲部で迎え撃つこととした。西魏軍は東西に水を背に布陣し、李弼が右翼を、[[趙貴]]が左翼を率いた。西魏軍の将士は武器とともに葦の中に身を隠し、鼓の音とともに立ち上がるよう手筈した。東魏軍が渭曲に到着すると、[[斛律羌挙]]は渭曲の葦が長く泥濘の深い土地柄を警戒して火攻めを進言したが、[[侯景]]が宇文泰を焼き殺しては遺体が判別できなくなると反対し、[[彭楽]]もまた味方の大軍をたのんで勝利を断言したので、高歓は斛律羌挙の進言をしりぞけた。
 
東魏軍は西魏軍の少勢をみて、争って進軍し、行軍の列を乱した。会戦がはじまると、宇文泰は鼓を鳴らし、西魏の全軍は同時に立ち上がった。[[于謹]]ら六軍は東魏軍の正面にたちはだかり、李弼らが鉄騎を率いて東魏軍を横撃すると、東魏軍を分断して大勝をおさめた。李弼の弟の[[李ヒョウ|李檦]]や耿令貴([[耿豪]]がとくに戦果を上げて、宇文泰の賞賛を受けた。東魏の彭楽は酒に酔っていたところを西魏の兵士に刺され、腸を出しながら奮戦した。高歓は再戦をいどむべく、自軍の混乱を収拾して張華原に設営しようとしたが、東魏の諸軍はみな敗走の勢を立て直すことができなかった。高歓は撤退をよしとせず、さらに踏みとどまろうとした。[[斛律金]]が河東への帰還を勧め、高歓がなおも動かないと、斛律金は高歓の馬に鞭を入れて逃げさせた。その夜、高歓は黄河を渡河しようとしたが、船は岸を去っており、駱駝にまたがって船に追いついて、ようやく渡ることができた。東魏軍は8万人の兵を失い、武具18万を遺棄した。宇文泰は高歓を河上まで追撃したが、兵士2万人あまりを残して、残りは帰還させた。西魏の都督の[[李穆]]はさらなる追撃を望んだが、宇文泰は聞き入れなかった。
 
西魏は丞相宇文泰に柱国大将軍の位を加え、李弼らの諸将もそれぞれ爵位を進めた。高昂は高歓の敗北を聞いて、恒農の包囲を解き、[[洛陽]]に撤退した。