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==== 唐の関係 ====
[[7世紀]]新羅の[[金春秋]](武烈王)は唐の冊封を受け、新羅国王となって百済と高句麗を滅ぼし半島を統一する道を選んだ。これ以後、朝鮮半島の国家は新羅であれ[[高麗]]であれ[[李氏朝鮮]]であれ全て中国皇帝の[[冊封]]下に入る<ref>{{cite web|author=[[井沢元彦]]| url=https://megalodon.jp/2011-1208-1440-05/www.news-postseven.com/archives/20111208_74172.html | publisher=[[週刊ポスト]] | title=ソウル独立門の由来に現地若者「日本からだ!」→正解は中国| date=2011-12-08 |accessdate=2016-09-10}}</ref>。武烈王の子文武王の時、唐と同盟し百済と高句麗を滅ぼした後、唐・新羅戦争において唐に多大な損害を与えて圧勝し、671年には唐を半島から撤退させたことで、唐の[[高宗 (唐)|高宗]]は文武王の[[冊封]]を取り消した。[[675年]]2月、文武王が謝罪使を派遣して冊封を取り戻すが、唐はその後も国境を接する朝鮮半島への介入を試み、戦争が断続的に行われた。675年9月に新羅軍は、泉城で唐の薛仁貴の軍を破り、買肖城
[[696年]]、唐と[[渤海 (国)|渤海]]との間に戦端が開かれると渤海により唐と新羅は国境線を接しなくなった。これ以後を今日の韓国や北朝鮮では'''南北国時代'''と呼んでいる。[[南北国時代]]とは、南の新羅と北の渤海を一組にした時代認識である<ref>韓国では高句麗の滅亡後にその遺民が[[靺鞨]]族と共同して[[満州]]に建国した[[渤海 (国)|渤海]]を高句麗の後継国家と見なし、新羅・渤海をあわせて「南北国時代」と呼ぶことで、朝鮮民族史の及ぶ地理的範囲を朝鮮半島から[[満洲]]・[[沿海州]]を含めた領域と認識している。しかしながら、言語的観点から現代の韓国・北朝鮮の祖とされる新羅と、高句麗・渤海とでは、民族的・言語的に隔たりがあり(金芳漢著・大林直樹訳『韓国語の系統』)、高句麗・渤海を現在の韓国・北朝鮮へ連続する国家と見なす十全な根拠がないため、高句麗・渤海の故地を領土に含み、また高句麗・渤海と民族的に同系である満州族を国民として多数抱える中国との間に軋轢が生じている([[東北工程]])。</ref>。
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