「赤眉軍」の版間の差分
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== 概要 ==
[[天鳳 (元号)|天鳳]]元年([[14年]])、
赤眉軍の勢力拡大に対抗すべく、[[地皇 (元号)|地皇]]3年([[22年]])、[[王莽]]は[[王匡 (新)|王匡]]、[[廉丹]]に約10万の兵を与え赤眉軍討伐を行うが失敗、この時点で赤眉軍の勢力は10万を越え、青州、徐州、兗州、豫州の各地に影響力を及ぼしていた。[[更始 (漢)|更始]]元年([[23年]])春、[[更始帝|劉玄]]が即位([[更始帝]])、同年秋には[[長安]]に入った。赤眉軍は一度は[[更始帝]]へ帰順したが、列侯に叙された上層部も封地が定まらず、その兵は離反し始めたため、更始帝に対立。[[建武 (漢)|建武]]元年([[25年]])、赤眉軍は[[樊崇]]と[[徐宣]]が[[関中]]に侵攻し、漢宗室の[[劉盆子]]を皇帝に擁立、文字の読めた徐宣を[[丞相]]に、樊崇は[[御史大夫]]となった。また、更始帝の軍内部で権力闘争があり、王匡が赤眉軍に投降すると赤眉軍は長安に入城。投降した[[更始帝]]を殺害した。
しかし、長安入城を果たした時点で赤眉軍はその規模の維持が限界に達しており、各地に食料を求めて移動する状況にあった。この移動の最中、[[隴]]への行軍時に大雪に見舞われ、甚大な被害を受けたために進路を東に変える。その後、長安に戻ると、苦戦する赤眉軍は[[関中]]の放棄を決めた。[[建武 (漢)|建武]]3年([[27年]])に崤底(現在の[[河南省]][[洛陽市]][[洛寧県]])で[[光武帝]]の将軍[[馮異]]の軍に敗れ、宜陽で待ち構えていた光武帝本軍に樊崇らは投降する。その後、樊崇らは再度挙兵を謀るも露見して殺害され、赤眉軍は消滅した。ただ、徐宣・[[楊音]]のふたりは、帰郷して平穏に余生を送っている。
== 関連人物 ==
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