「江戸開城」の版間の差分

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Shitau (会話 | 投稿記録)
戊辰戦争勃発の引き金は、薩摩による旧幕府挑発にあった。
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鳥羽伏見の戦い当時の朝廷は、薩長と通じた岩倉具視らが主導権を握っていた。
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倒幕の大義名分を失った薩摩は旧幕府側を挑発して、旧幕府側から戦端を開かせようと画策した。薩摩に集められた浪人たちが勤皇のためと称して豪商の店に押し入り強盗を働き、更には辻斬り、強姦、放火と凶悪事件を立て続けに行ったことで、江戸の治安は極度に悪化し、「薩摩御用盗」と呼ばれて恐れられた。浪人たちの挑発行為はエスカレートして、12月23日夜、三田の庄内藩屯所が銃撃され、同じ日、江戸城二ノ丸が炎上し、伊牟田尚平の仕業だと噂され、遂に堪りかねた旧幕府側は薩摩藩上屋敷の浪士処分を決定した。12月25日、旧幕府側が薩摩藩に浪人の引き渡しを要求したが、薩摩側から拒否され、薩摩藩邸および[[佐土原藩]](薩摩支藩)邸を攻撃するに至った。
 
この報が12月28日大坂城にもたらされると、「薩摩討つべしとの主戦論が沸騰し、「討薩表」を携えて朝廷に訴えようと旧幕府軍が上京を試み、慶応4年正月3日[[鳥羽 (洛外)|鳥羽]]([[京都市]])で薩摩藩兵と衝突し、戦闘となった([[鳥羽・伏見の戦い]])。しかし薩長側に通じた岩倉具視らが主導権を握ってい廷は薩摩・長州藩兵側を官軍と認定して[[錦旗]]を与え、旧幕府軍は[[朝敵]]となってしまう。そのため[[淀藩]]・[[津藩]]などが旧幕府軍から離反し、戦局は旧幕府軍が劣勢に陥り、6日、慶喜は軍を捨てて大坂城を脱出、軍艦[[開陽丸]]で海路江戸へ逃走した。ここに鳥羽・伏見の戦いは旧幕府の完敗で終幕した。
 
新政府は7日徳川慶喜追討令を発し<ref>[[#iwakurako-jikki|『岩倉公実記』中巻 (1906年)]]、246頁〈征討大号令宣布ノ事〉以下</ref>、10日には慶喜・[[松平容保]]([[会津藩]]主、元[[京都守護職]])・[[松平定敬]]([[桑名藩]]主、元[[京都所司代]])を初め幕閣など27人の「朝敵」の官職を剥奪し、[[京都]]藩邸を没収するなどの処分を行った{{efn|朝敵はその罪状の軽重によって5等級に区分されていた。すなわち第一等は徳川慶喜(前将軍)。第二等は鳥羽・伏見の戦いで敵対した主力である松平容保(会津藩主)、松平定敬(桑名藩主)。第三等は在坂して幕府軍に協力し、慶喜の江戸脱走に同行した者として、[[松平定昭]]([[伊予松山藩]]主)、[[酒井忠惇]]([[老中]]・[[姫路藩]]主)、[[板倉勝静]](老中・[[備中松山藩]]主)。第四等は藩主が在坂中に家臣が発砲したが速やかに上京・謝罪した[[松平宗武|本庄宗武]]([[宮津藩]]主)。第五等は藩主が在国中であったが在坂の家臣が発砲し、後に藩主が上京・謝罪した[[戸田氏共]]([[大垣藩]]主)、[[松平頼聰]]([[高松藩]]主)である。}}。翌日には諸藩に対して兵を上京させるよう命じた。また21日には外国事務総督[[東久世通禧]]から諸外国{{efn|フランス・イギリス・[[プロイセン王国|ドイツ]]・[[イタリア王国|イタリア]]・[[オランダ王国|オランダ]]・[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の6ヶ国。}}の代表に対して、徳川方に武器・軍艦の供与や兵の移送、[[軍事顧問]]の派遣などの援助を行わないよう要請した。これを受け25日諸外国は、それぞれ局外中立を宣言。事実上新政府軍は、かつて諸外国と条約を締結した政府としての徳川家と、対等の交戦団体として認識されたことになる。