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→‎材木の運搬: 戦前の海洋筏
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ある程度の流量のある[[川]]沿いであれば[[林道]]などが未整備な箇所においても木材の運搬ができたため、[[日本]]でも地域によっては[[昭和30年代]]まで用いられた。しかし、流域で貯木していた木材が洪水時等に下流へ被害を及ぼしたり、[[水力発電]]や[[治水]]などを目的とする[[ダム]]の建設や林道等の整備が進んだりすることにより木材運搬の手段としては使われなくなった。やがて、[[船舶工学]]の発展にともない、舟としてのいかだも先進国では実用に供されることはほとんどなくなった。
 
大河川や海洋では、[[北洋材]]の生産現場で開発が進んだ。[[樺太]]では、大正年間から豊富な森林資源を[[内地]]や島内の[[製紙]]工場へ輸送するために、海洋筏による輸送が試行錯誤を続けながら行われた。こうした技術は、[[第二次世界大戦]]に入ると船腹が不足して通常の貨物輸送が行われなくなった[[内地]]でも応用されるようになり、海軍が[[日本通運]]に命じて[[室蘭港]]-[[東京港]]間(カナダ木材が下請け)、[[高知港]]-[[大阪港]]間(富士商会が下請け)、[[新宮港]]-[[名古屋港]]([[王子製紙]]が下請け)で海洋筏による輸送が行われた<ref> 樺太林業史編集会 『樺太林業史』 p312-318 1960年 農林出版株式会社</ref>。
大河川や海洋では、[[ソビエト連邦]]の手で大規模な海洋筏の研究が行われていた。[[1951年]]には、[[沿海州]]の[[アムール河]]河口付近から[[北海道]]などに向けて海洋筏により[[北洋材]]の運搬が行われた。ソビエト連邦側の港には、編筏機が設置されていた<ref>上野金太郎編『北洋材十年史』1970年 全国北洋材協同組合連合会 p.34 記録編</ref>。運搬中の流出や損耗もあり、やがて船舶による運搬に転換された。
 
大河川や海洋では戦後も、[[ソビエト連邦]]の手で大規模な海洋筏の研究が行われていた。[[1951年]]には、[[沿海州]]の[[アムール河]]河口付近から[[北海道]]などに向けて海洋筏により[[北洋材]]の運搬が行われた。ソビエト連邦側の港には、編筏機が設置されていた<ref>上野金太郎編『北洋材十年史』1970年 全国北洋材協同組合連合会 p.34 記録編</ref>。運搬中の流出や損耗もあり、やがて船舶による運搬に転換された。
 
===一時的な定住目的===