「イスラム教」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
167行目:
ほぼ同時期に、サーサン朝に対しても事を起こす。この帝国は当時、戦争による疲弊に加えて、皇帝不在がその直前まで続いており、極度の混乱状態にあった。そのため、イスラム教のアラビア人による略奪と征服は、自然発生的に行われていたが、その略奪隊を組織するため、ハリードがイラクに派遣された。彼は複数の街を征服した後、シリア戦線に去ってしまい、残されたイスラム軍は統制を欠き、進軍は停滞し、各所で敗戦を重ね、サーサン朝が勝利するかに見えた。
 
しかし、アブー・バクルの後で2代目カリフとなった[[ウマル・イブン・ハッターブ|ウマル]]は、新たに将軍を任命し、態勢を立て直し、636年、カーディシーヤで重装の騎兵や象兵を含むペルシア軍を撃破し、642年には[[ニハーヴァンド]]でペルシア皇帝自らが率いる親征軍を大破して、皇帝は数年後に部下に殺されて、こうしてペルシア地域も、イスラム教徒に下ったのであった<ref>後藤明、吉成勇編『世界「戦史」総覧』新人物往来社、1998年、p.45-46</ref>。
一方、こうした遠征と同時並行的に、イスラム軍は、海からも遠征を開始した。637年、小艦隊ではあったが、イスラム軍はアラビア半島東部の[[オマーン]]を出港して、インドの[[ボンベイ]]付近を略奪し、その後も、インド洋方面への攻撃を繰り返した<ref>『世界の歴史 5』中央公論社、1961年、p.232</ref>。