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== 概要 ==
[[朝鮮半島]]における倭国の北端である『[[三国志]]』魏書東夷伝倭人条の項目における[[狗邪韓国]](くやかんこく)の後継にあたる金官国を中心とする地域、[[三韓]]の[[弁辰]]、[[弁韓]]および[[辰韓]]の一部、[[馬韓]]の一部(現在の全羅南道を含む地域)を含むと看做すのが通説である。任那諸国<ref>通典辺防典</ref>の中の[[加羅#金官国(駕洛国)|金官国]](現在の[[慶尚南道]][[金海市]])を指すものと主張する説もある(後述)。
 
後に狗邪韓国(金官国)そして任那となる地域は、[[弥生時代]]中期(前4、3世紀)に入り従来の土器とは様式の全く異なる[[弥生土器]]が急増し始めるが、これは後の任那に繋がる地域へ倭人が進出した結果と見られる<ref>『朝鮮半島出土弥生系土器から復元する日韓交渉』[http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/43794]東京大学考古学研究室研究紀要. 第25号, 2011年3月, pp.65-96</ref>。
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そのため、任那や[[加羅]]地域とその西隣の地域において支配権、軍事動員権および徴税権を有していた集団が、ヤマト王権と深い関連を持つ者達だった。ただしそれらは、ヤマト王権に臣従した在地豪族であって、ヤマト王権から派遣された官吏や軍人ではないという意見が有力である(詳しくは[[任那日本府]])。ともあれ少なくとも軍事や外交を主とする[[倭国]]の機関があり、倭国は任那地域に権限と権益(おそらく製鉄の重要な産地があった)を有していたであろう<ref group="注釈">吉田孝は、「任那」とは、[[高句麗]]・[[新羅]]に対抗するために[[百済]]・倭国([[ヤマト王権]])と結んだ任那加羅([[金官国]])を盟主とする小国連合であり、いわゆる伽耶地域とは一致しないこと、倭国が置いた軍事を主とする外交機関を後世「任那日本府」と呼んだと主張し、百済に割譲した四県は倭人が移住した地域であったとした。また、[[532年]]の任那加羅(金官加羅)滅亡後は安羅に軍事機関を移したが、[[562年]]の大加羅の滅亡で拠点を失ったと主張した(→吉田1997 pp.74-78.)。</ref>。
 
==== 実証主義を否定する韓国民族史観に基づく解釈 ====
現代韓国では民族の誇りを養う為、政府や学界が、[[記紀]]、考古学的成果、[[好太王碑|広開土王碑]]、『[[宋書]]』倭国伝等の史料を、積極的に曲解する[[朝鮮民族主義歴史学|民族史観]]を国を挙げて推進している<ref>http://yayoi.senri.ed.jp/research/re11/KKim.pdf</ref><ref>[http://japanese.joins.com/article/024/139024.html 国史編纂委員会「近代以前は植民史観、近現代は理念偏向相変わらず」]中央日報2011年04月11日11</ref>。
 
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;新羅による任那征服と推古朝の新羅征討
[[日本書紀]]によれば、[[飛鳥時代]]にも[[朝鮮半島]]への軍事行動が計画された。[[西暦]][[562年]]、'''任那'''[[任那日本府|日本府]]が[[新羅]]によって滅ばされた。これを回復するための「[[征討軍]]」が[[推古天皇|推古朝]]に三度、計画され、一度目は新羅へ侵攻し、新羅は降伏している<ref name="shoki" />。
 
[[推古天皇|推古]]8年(西暦[[600年]])2月で、倭国は任那を救援するために新羅へ出兵した<ref name="shoki" />。[[境部臣]](さかひべのおみ)が征討大将軍に任命され、副将軍は穂積臣であった<ref name="shoki">岩波文庫「日本書紀」四(1995年、2000年第七版)</ref>。五つの城が攻略され、新羅は降伏した<ref name="shoki" />。さらに、[[多多羅]](たたら)、[[素奈羅]](すなら)、[[弗知鬼]](ほちくい)、[[委陀]](わだ)、[[南迦羅]](ありひしのから)、[[阿羅々]](あらら)の六つの城が攻略された<ref name="shoki" />。[[難波吉士]]神(なにわのきしみわ)を新羅に派遣し、また難波吉士木蓮日(なにわのきしいたび)を任那に派遣し<ref name="shoki" />、両国が倭国に[[朝貢]]を約させた<ref name="shoki" />。しかし、倭国の軍が帰国したのち、新羅はまた任那へ侵攻した<ref name="shoki" />。翌[[推古天皇|推古]]9年([[601年]])3月には、[[大伴連囓于]](おほとものむらじくひ)を[[高句麗|高麗]](こま)に派遣し、[[坂本臣糠手]](さかもとのおみむらて)を百済へ派遣し、任那救援を命じた<ref name="shoki" />。
 
[[推古天皇|推古]]10年([[602年]])2月、[[聖徳太子]]の弟[[来目皇子]]が[[征新羅大将軍|新羅征討将軍]]として軍二万五千を授けられる<ref name="shoki" />。4月に軍を率いて[[筑紫国]]に至り、[[志摩郡 (福岡県)|島郡]]に屯営した<ref name="shoki" />。6月3日、百済より[[大伴連囓于]]と坂本臣糠手が帰国する<ref name="shoki" />。しかし、来目皇子が[[病気|病]]を得て新羅への進軍を延期とした。来目皇子は、征討を果たせぬまま、翌[[推古天皇|推古]]11年([[603年]])2月4日、筑紫にて薨去<ref name="shoki" />。来目皇子は、[[周防国|周防]]の[[佐波郡 (山口県)|娑婆]](遺称地は[[山口県]][[防府市]]桑山)に[[殯]]し、[[土師猪手]]がこれを管掌した<ref name="shoki" />。
 
[[推古天皇|推古]]11年([[603年]])4月、来目皇子の兄[[当麻皇子|当摩皇子]](たぎまのみこ)が新羅征討将軍に任命される<ref name="shoki" />。[[推古天皇|推古]]11年([[603年]])7月3日、[[難波]]より出航し、7月6日に播磨に到着するが、妻の[[舎人皇女]](欽明天皇の皇女)が赤石に薨去したため、当摩皇子は朝廷に帰還し、計画は潰えた<ref name="shoki" />。
 
その後、[[大化]]2年(646年)2月まで任那は高麗・百済・新羅とともに倭国へ調を納めていたが、同年9月に[[高向博士黒麻呂]]([[高向玄理]])が新羅へ派遣され、[[質]](人質)を送ることと引き替えに、これまで「任那の調」の代行納入を新羅に求めることは廃止され、質として[[武烈王|金春秋(後の武烈王)]]が来日している<ref>吉田1997 pp.101.</ref>。
 
=== その他の日本史料における任那 ===