「壬生綱房」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
MomijiRoBot (会話 | 投稿記録)
m Bot: [​[宇都宮広綱|宇都宮広綱]​] → [​[宇都宮広綱]​] ,Removed linktext ∵Check Wikipedia #64
編集の要約なし
4行目:
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[室町時代]]後期 - [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]
| 生誕 = [[文明 (日本)|文明]]11年([[1479年]])
| 死没 = [[天文 (元号)|天文]]24年[[3月17日 (旧暦)|3月17日]]([[1555年]][[4月8日]])
| 改名 =
| 別名 =
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 = 龍柱院殿雲山良瑞
| 霊名 =
| 官位 = 下総守、中務少輔
| 墓所 =
| 主君 = [[宇都宮成綱]]→[[宇都宮忠綱]]→[[宇都宮興綱]]→[[宇都宮尚綱]]
| 官位 = [[下総国#国司|下総守]][[中務省|中務少輔]]
| 幕府 =
| 主君 = [[宇都宮成綱]]→[[宇都宮忠綱|忠綱]]→[[宇都宮興綱|興綱]]→[[宇都宮尚綱|尚綱]]
| 藩 =
| 氏族 = [[壬生氏]]
| 父母 = 父:[[壬生綱重]]<br/>母:[[芳賀高益]]・盛昌院殿般空妙栄
| 兄弟 = '''綱房'''、[[壬生周長|周長(徳雪斎)]]、[[大門資長|資長]]
| 妻 = 正室:'''法雲院殿大蓮妙鏡'''<br/>側室:[[横手一伯]]娘
| 子 = '''[[壬生綱雄|綱雄]]'''[[座禅院昌膳|昌膳]]
| 特記事項 =
}}
 
'''壬生 綱房'''(みぶ つなふさ)は、[[室町時代]]後期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけての[[武将]][[戦国大名]]。[[壬生氏]]第3代当主・[[下野国|下野]][[宇都宮氏]]の家臣。[[壬生氏]]3代当主。権謀術数]]を駆使して[[芳賀高経]]などの重臣を失脚させ、宇都宮家中で絶大な権力を有した。晩年には[[下克上]]を果たし宇都宮氏から独立する。[[壬生綱重]]の嫡男。子に、[[壬生綱雄|綱雄]]、[[座禅院昌膳|昌膳]]がいる。弟に[[壬生周長|周長]]、[[大門資長|資長]]
 
== 生涯 ==
[[文明 (日本)|文明]]11年([[1479年]])、下野宇都宮氏の家老・[[壬生綱重]]の嫡男として誕生した<ref>ただし、系図によっては、1486年誕生説もある。</ref>。主君・[[宇都宮成綱]]から偏諱を賜っ受けている。
=== 宇都宮成綱・忠綱家臣時代 ===
[[文明 (日本)|文明]]11年([[1479年]])、下野宇都宮氏の家老・[[壬生綱重]]の嫡男として誕生した<ref>ただし、系図によっては、1486年誕生説もある。</ref>。主君・[[宇都宮成綱]]から偏諱を賜っている。
 
父・綱重が[[鹿沼城]]を任せられると、綱房は[[壬生城]]主となった。[[永正]]6年([[1509年]])に[[宗長]]が[[鹿沼城|鹿沼]]に訪れた際に家臣の[[横手繁世]]と共に催し、句を披露した。この後、[[横手一伯]]の娘を側室として迎えたという。永正9年([[1512年]])、[[宇都宮錯乱]]の際は父に従い成綱方だったと思われる。永正17年([[1520年]])には、[[浄宝寺縄吊し合戦]]で[[那須氏]]の居城・[[山田城]]を謀略で落とす等の功績を上げている。ところが、[[大永]]3年([[1523年]])に[[皆川氏]]との間で起こった[[河原田合戦]]では宇都宮氏の皆川領侵攻に反対し、宇都宮軍の退路を遮断したという<ref>「皆川正中録」</ref>。同年、主君・[[宇都宮忠綱]]が[[猿山合戦]]にて大敗すると、[[芳賀高経]]・[[芳賀高孝|高孝]]ら反忠綱派によって擁立された成綱の三男・芳賀興綱(後の[[宇都宮興綱]])が[[宇都宮城]]を乗っ取り家督を簒奪した際には([[大永の内訌 (下野宇都宮氏)|大永の内訌]])、綱房は居城にて忠綱を保護するが、その後忠綱は急死。忠綱を見限った綱房による暗殺ともいう。
 
この頃から野心をき出しにしており、忠綱死後、綱房は[[日光山]]を掌握しようと、二男・[[座禅院昌膳]]を送り込み日光山の実質的な最高位である御留守職に就任させ、自身は[[享禄]]期の頃に日光山御神領惣政所となり、[[日光山]]の統治者となった。日光山岳の宿の改修や[[鹿沼市|鹿沼]]の今宮権現の造営など日光山の統治者しての活動に尽力した。
[[永正]]9年([[1512年]])、[[宇都宮錯乱]]の時は父に従い成綱方だったと思われる。永正17年([[1520年]])には、[[浄宝寺縄吊し合戦]]で[[那須氏]]の居城・[[山田城]]を謀略で落とすなどの功績を上げている。ところが、[[大永]]3年([[1523年]])に[[皆川氏]]との間で起こった[[河原田合戦]]では宇都宮氏の皆川領侵攻に反対し、宇都宮軍の退路を遮断したという<ref>「皆川正中録」</ref>。同年、主君・[[宇都宮忠綱]]が[[猿山合戦]]にて大敗すると、[[芳賀高経]]・[[芳賀高孝]]ら反忠綱派によって擁立された成綱の三男・芳賀興綱(後の[[宇都宮興綱]])が[[宇都宮城]]を乗っ取り家督を簒奪した際には([[大永の内訌 (下野宇都宮氏)|大永の内訌]])、綱房は居城にて忠綱を保護するが、その後忠綱は急死。忠綱を見限った綱房による暗殺ともいう。
 
反忠綱派によって擁立された主君・興綱は当時10歳と若年であり、芳賀高経は興綱を傀儡として扱い、宇都宮錯乱で失った権力を取り戻し、綱房もそれに乗じて権力を増大させ、興綱の代に宿老の地位を固めた。興綱が成人して独自の行動を取るようになると綱房は高経とともに対立。一度は宇都宮家臣の[[赤埴氏]]・[[戸祭氏]]らの取り成しによって和解したが、その後再び対立した。[[天文 (元号)|天文]]元年([[1532年]])に芳賀高経、[[芳賀高孝]]と手を結んで興綱の主家乗っ取りの罪を追及し強制的に隠居させ、今度は成綱の二男・[[宇都宮尚綱|俊綱(尚綱)]]を擁立する。さらに[[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]])には高経とともに興綱を自殺に追い込んだ。また、綱房は天文元年([[1532年]])に鹿沼城の大改築を行い、城を山城から平山城とした
=== 宇都宮興綱家臣時代 ===
この頃から野心をむき出しにしており、忠綱死後、綱房は[[日光山]]を掌握しようと、二男・[[座禅院昌膳]]を送り込み日光山の実質的な最高位である御留守職に就任させ、自身は[[享禄]]期の頃に日光山御神領惣政所となり、[[日光山]]の統治者となった。日光山岳の宿の改修や[[鹿沼市|鹿沼]]の今宮権現の造営など日光山の統治者しての活動に尽力した。
 
これ天文期の頃なると綱房の権力の増大化によって壬生氏の地位は[[芳賀氏]]、[[益子氏]]に次ぐものになっていた。壬生領に隣接している[[小山氏]]の当主・[[小山高朝]]が[[白河結城氏]]の[[結城義綱]]に心苦しいと書状を送った程であったという。しかし、危機感を抱いた[[芳賀高経]]と不和となり、綱房は興綱自害の一件で高経と関係が悪化している当主・俊綱に接近し、高経と対立。綱房は高経の謀反の噂を流したとされる。高経が[[宇都宮氏]]と敵対している小山氏と関係を持ち始めたこときっかけ契機に天文10年([[1541年]])、[[古河公方]][[足利晴氏]]・[[小田政治]]・[[佐竹義篤]]らとともこれ高経を滅ぼした。また、天文11年([[1542年]])に綱房の二男・[[座禅院昌膳]]が壬生氏の力が日光山に及びすぎることに不満を抱き、[[粟野町|久野村]]に隠居。それに対し綱房は昌膳の謀反の噂を捏造して広めさせ、嫡男[[壬生綱雄|綱雄]]に攻めさせ、これを滅ぼしたという。高経を滅ぼした事で綱房を抑えられる者はいなくなり、壬生氏は宇都宮家中で非常に大きい影響力を有した
反忠綱派によって擁立された主君・興綱は当時10歳と若年であり、[[芳賀高経]]は興綱を傀儡として扱い、宇都宮錯乱で失った権力を取り戻し、綱房もそれに乗じて権力を増大させ、興綱の代に宿老の地位を固めた。
 
天文18年([[1549年]])、[[喜連川五月女坂の戦い]]で主君・宇都宮尚綱が戦死すると混乱に乗じて[[宇都宮城]]を占拠した。綱房は那須氏と和議し芳賀高経の子・[[芳賀高照|高照]]を宇都宮城に招いて共同政治体制を敷いた。しかし、実質的な支配者は綱房であり、高照は不安を抱いていたという。綱房は壬生城に嫡男・綱雄を置き、今まで居城だった鹿沼城に弟・[[壬生周長|徳雪斎]]を置き、領内各地の城主らには本領安堵を約している。こうして周辺の守りを固め、敵対しているのは尚綱の子・伊勢寿丸(後の[[宇都宮広綱]])を保護している[[芳賀高定]]のみとなった。天文20年([[1551年]])、反乱の起きた結城氏のために古河公方から援軍を要請された時には、嫡男・綱雄を総大将に3000もの兵で出陣させ大勝利する。この戦果によって周辺国に壬生氏の勢いを見せつけた。綱房は、着実に旧宇都宮領を侵攻し壬生領として版図を拡大させ、綱房に敵対する[[多功氏]]、[[今泉氏]]、[[芳賀氏]]を牽制した。[[塩谷氏]]はどちらにもつかず中立な立場をとった。
興綱が成人して独自の行動を取るようになると綱房は高経とともに対立。一度は宇都宮家臣の[[赤埴氏]]・[[戸祭氏]]らの取り成しによって和解したが、その後再び対立した。[[天文 (元号)|天文]]元年([[1532年]])に芳賀高経、[[芳賀高孝]]と手を結んで興綱の主家乗っ取りの罪を追及し強制的に隠居させ、今度は成綱の二男・[[宇都宮俊綱]]を擁立する。さらに[[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]])には高経とともに興綱を自殺に追い込んだ。
 
天文24年([[1555年]])、急死。[[芳賀高定]]による謀殺ともいう。
また、綱房は[[天文 (元号)|天文]]元年([[1532年]])に[[鹿沼城]]の大改築を行い、城を山城から平山城とした。
 
=== 宇都宮俊綱家臣時代 ===
天文期の頃になると綱房の権力の増大化によって[[壬生氏]]の地位は[[芳賀氏]]、[[益子氏]]に次ぐものになっていた。壬生領に隣接している[[小山氏]]の当主・[[小山高朝]]が[[白河結城氏]]の[[結城義綱]]に心苦しいと書状を送ったほどであったという。
 
これに危機感を抱いた[[芳賀高経]]と不和となり、綱房は興綱自害の一件で高経と関係が悪化している当主・俊綱に接近し、高経と対立。綱房は高経の謀反の噂を流したとされる。高経が[[宇都宮氏]]と敵対している小山氏と関係を持ち始めたことをきっかけに天文10年([[1541年]])、[[古河公方]][[足利晴氏]]・[[小田政治]]・[[佐竹義篤]]らとともにこれを滅ぼした。また、天文11年([[1542年]])に綱房の二男・[[座禅院昌膳]]が壬生氏の力が日光山に及びすぎることに不満を抱き、[[粟野町|久野村]]に隠居。それに対し綱房は昌膳の謀反の噂を捏造して広めさせ、嫡男の[[壬生綱雄]]に攻めさせ、これを滅ぼしたという。
 
高経がいなくなったことで綱房を抑えられる者はいなくなり、壬生氏は宇都宮家中で非常に大きい影響力を有した。
 
=== 宇都宮城乗っ取り ===
天文18年([[1549年]])[[喜連川五月女坂の戦い]]で主君・[[宇都宮尚綱]]が戦死すると混乱に乗じて[[宇都宮城]]を占拠した。綱房は[[那須氏]]と和議し芳賀高経の子・[[芳賀高照]]を宇都宮城に招いて共同政治体制をしいた。しかし、実質的な支配者は綱房であり、高照は不安を抱いていたという。
 
綱房は壬生城に嫡男・綱雄を置き、今まで居城だった[[鹿沼城]]に弟の[[壬生周長|壬生徳雪斎]]を置き、領内各地の城主らには本領安堵を約している。こうして周辺の守りを固め、敵対しているのは尚綱の子・伊勢寿丸(後の[[宇都宮広綱]])を保護している[[芳賀高定]]のみとなった。
 
天文20年([[1551年]])、反乱の起きた結城氏のために古河公方から援軍を要請された時には、嫡男・綱雄を総大将に3000もの兵で出陣させ大勝利する。この戦果によって周辺国に壬生氏の勢いを見せつけた。
 
綱房は、着実に旧宇都宮領を侵攻し壬生領として版図を拡大させ、綱房に敵対する[[多功氏]]、[[今泉氏]]、[[芳賀氏]]を牽制した。[[塩谷氏]]はどちらにもつかず中立な立場をとった。
 
天文24年([[1555年]])、急死。[[芳賀高定]]による謀殺ともいう。
 
== 脚注 ==
59 ⟶ 49行目:
[[Category:壬生氏|つなふさ]]
[[Category:戦国武将]]
[[Category:宇都宮成綱|将下野国の人物]]
[[Category:宇都宮成綱|将]]
[[Category:1479年生]]
[[Category:1555年没]]
[[Category:宇都宮成綱|将]]
{{people-stub}}
{{Japanese-history-stub}}