「小弓城」の版間の差分

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[[鎌倉時代]]初期の創建といわれ、千葉氏が上総国との境界付近を守る要衝として築き、重臣の原氏に守らせた。1509年、連歌師の[[柴屋軒宗長]]は、城主原胤高に招かれ、小弓館で猿楽や連歌に興じたことを旅日記「東路のつと」に記している。
 
1518年、[[足利義明]]が[[原氏]]を追って城を奪い、「'''小弓御所'''('''[[小弓公方]]''')」と名乗り、里見氏の支援を受けて[[後北条氏]]方の千葉氏・原氏と争った。しかし、1538年の第一次国府台合戦で義明が敗死すると、城を奪還した原氏は城の北側に新城を造り、表記を「[[生実城]]」と改名した。
 
ただし、近年の発掘調査で新城とされた城も[[室町時代]]には既に存在していた事が確実となり、実態としては2つの城を併せて「小弓城」または「生実城」と書き表していた可能性も出てきた。そのため、近年では便宜上、旧城とされてきた小弓御所跡の城を「'''南生実城'''」({{Coord|35|33|16|N|140|09|03|E|dim:500}})・新城とされてきた生実藩陣屋跡の城を「'''北生実城'''」({{Coord|35|33|59|N|140|08|45|E|dim:500}})と呼んで区別されることがある。
 
==構造==
大百池公園の西側に位置する標高20~25mの台地上にあり、古城、東堀、城出下などの字名が城内外に残されている。主郭は、南西部の字古城の場所で、千葉市が立てた案内板がある。
 
城域の南端には八剣神社があり、周辺に小規模な空堀が残っている。