「マグナ・カルタ」の版間の差分

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[[ブーヴィーヌの戦い]]が制定のきっかけである。1214年7月にフランスが勝利したので、ジョン王はさらに軍隊を確保しなくてはならなかった。そこでイングランド[[貴族]]がそれぞれに抱えていた不満を救済するよう強く求めた。さしあたり[[ヘンリー1世 (イングランド王)|ヘンリー1世]]の戴冠証書([[:en:Charter of Liberties|Charter of Liberties]])の写しが要求の出発点となった。この12項目からなる「未知の憲章(The Unknown Charter)」は、現在[[大英図書館]]に所蔵されている。
マグナ・カルタは[[ラニーミード]]において[[1215年]][[6月19日]]に制定され、[[法の支配]]を確認した。[[教皇]][[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]の勅令により無効とされたものの、その後、数度改正されている([[:en:Magna Carta|英語版]]を参照されたい)。
国王と議会が対立するようになった[[17世紀]]になり再度注目されるようになった。マグナ・カルタの理念は、[[エドワード・コーク]]卿ほか英国の裁判官たちによって憲法原理としてまとめられた。マグナ・カルタは[[清教徒革命]]や[[アメリカ独立戦争]]の根拠となった。19世紀末に「未知の憲章」がジョン・ホラース・ラウンド([[:en:J. Horace Round|J. Horace Round]])により再発見された<ref>John W. Baldwin, "[https://academic.oup.com/ehr/article/CXXIII/503/811/457489 Master Stephen Langton, Future Archbishop of Canterbury: The Paris Schools and Magna Carta]", ''The English Historical Review'', Volume CXXIII, Issue 503, 1 August 2008, Pages 811–846, saying, "As a postscript to Stephen Langton's role in Magna Carta, some detective work is required to account for the Unknown Charter at Paris. Initially found in the French archives by an English Royal Commission early in the nineteenth century, it lay buried in their unpublished reports. The French archivist Alexandre Teulet had edited it in 1863 in his comprehensive Layettes du Trésor des Chartes (vol. I, nos. 34 and 1053), but it was John Horace Round who ‘discovered' it thirty years later in 1893 as he was examining the reports of the Royal Commission in London."</ref>。[[2009年]]マグナ・カルタは[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の『[[世界の記憶]]』に登録された。
[[1225年]]に作られた[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]のマグナ・カルタの一部は、現在でも[[イギリス]]において[[イギリスの憲法|憲法]]を構成する法典の一つとして効力を有する。
 
== 未知の憲章 ==
1204年、[[ジョン (イングランド王)|ジョン王]]が[[フランス王国|フランス]]王[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]との戦いに敗れてフランス内の領地を失った。1214年ジョン王が戦を再び仕掛けて再び敗戦した(ブーヴィーヌの戦い)。この戦いは[[教皇派と皇帝派]]の争いという側面をもっていたが、同年7月27日フランスの勝利に終わった。ジョン王のさらなる徴兵に対して貴族はいきり立った。帰国した[[カンタベリー大司教]]([[:en:John de Gray|John de Gray]])は彼らに対話で解決するよう働きかけたが同年10月18日に死んだ。貴族側で「未知の憲章」が作成され、年内から交渉に用いられた。貴族らは雑多で、しかし具体的な要求を掲げた。[[デュー・プロセス・オブ・ロー|デュー・プロセス]]の保障、相続税額の具体化、ユダヤ人に対する負債の猶予、軍役の範囲をノルマンディーとブルターニュまでとすること、そして御料林という直轄領に関する事項であった。12項目のうち3項目は御料林に関係した。まず、[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]の即位年から御料林法で設置されたものは、根拠法の適用を受けないものとした。1135年以降、その根拠法が適用されるのと等しい状態にあった土地も、適用を免れるものとした。御料林法が引続き適用される地域でも効力が制限されることとなった。
 
いかなる人も御料林に関して生命を奪われてはならないし、手足を切断されてはならない。
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教皇の支持を得たジョンが再び争うと、貴族らは[[フランス王国|フランス]]の[[ルイ8世 (フランス王)|ルイ王太子]]に王位を提供しようとした。
 
1216年10月ジョンが死ぬとルイ王太子がロンドンへ侵攻した([[第一次バロン戦争]])。マグナ・カルタは[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]の摂政[[ウィリアム・マーシャル (初代ペンブルック伯)|ウィリアム・マーシャル]]の元で再確認され、バロン戦争を終結させた。そしてこのときやっと、御料林憲章([[:en:Charter of the Forest|Charter of the Forest]])が公布された。
 
ヘンリー3世はその後マグナ・カルタを守らなかったため、たびたび再確認・修正された。