「コメット連続墜落事故」の版間の差分

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定刻から25時間遅れの18時32分 (UTC)、201便はローマのチャンピーノ空港を離陸しカイロに向かった。19時05分にカイロの航空管制塔に「カイロへの到着時間は21時02分」と報告したのが、201便の最期の通信になった。
 
G-ALYY はその直後の19時07分頃、[[ナポリ]]南東の[[ストロンボリ島]]付近50km沖合の[[ティレニア海]]上空高度 35,000 ft (10,700 m) を巡航中に空中爆発し、乗員(全て南アフリカ国籍)7名と乗客14名の21名全員が行方不明になった。通信途絶直後より[[航空管制官]]が201便に何度も連絡を試みたが、無応答が続いたため遭難したと見做されたが、この時の無線通信を傍受していたドイツの[[ラジオ]]局によって、事故の速報が世界中に伝えられた。
 
事故機の飛行時間は2,704時間で、1952年の製造から2年しか経過しておらず、飛行回数も僅か900回程度であった。
 
翌日から BOAC の[[エアスピード アンバサダー|アンバサダー]]旅客機や、英海軍の[[航空母艦|空母]][[イーグル (空母・2代)|イーグル]]と[[駆逐艦]]ダーリンなどの船舶、並びに[[TBF (航空機)|アベンジャー]][[哨戒機]]による捜索が行われたが、漂流中の幾許かの残骸と5名の遺体を収容しただけに終わった。その後、犠牲者1名の遺体が海岸に漂着した。また墜落現場の水深は1,000m近くもあり、当時の技術ではサルベージは断念された。
 
G-ALYP と G-ALYY の連続事故で、コメット自体に重大な問題があることは最早明白になった。英政府は事故翌日の[[4月9日]]中にコメットの[[耐空証明]]を再び取り消した。世界中で運用されていたコメットは与圧システムを作動させずに再び本国へ召還回送され、二度と路線に復帰することはなかった。