「ベアトリーチェ・ディ・ホーエンシュタウフェン」の版間の差分

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母[[ヘレナ・アンゲリナ・ドゥーカイナ]]は[[エピロス専制侯国]]の公女で、マンフレーディの2番目の妃だった。ベアトリーチェは、母ヘレナが18歳のときに生まれた。
 
[[1266年]]、父[[マンフレーディ]]が戦死すると、母ヘレナはベアトリーチェらを連れて逃走しようとした。しかしベアトリーチェと母ヘレナや兄弟たちは囚われの身となり、敵方の[[カルロ1世 (シチリア王)|シャルル・ダンジュー]]によって[[カステル・デル・モンテ]]城(世界遺産になった)に監禁された。6歳から22歳までのあいだ、ベアトリーチェは牢獄の中で育てられた。
 
ベアトリーチェは1282年に解放された。その後、[[レーニエ・ゲラルデスカ]]の妃となったが、[[サルッツォ侯国|サルッツォ侯]]マンフレード4世に奪われてその妃となった。ベアトリーチェは、マンフレード4世の子を2人(カテリーナ、フェデリコ)生んだ。1307年にベアトリーチェが亡くなると、マンフレード4世は[[イザベラ・ドリア]]という新しい妻を迎えた。