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== 歴史 ==
[[1956年]](昭和31年)に開発された世界初の[[アンペックス]]社の2インチVTRは、テレビ信号をほとんど劣化なく記録できるものであった、主に放送用として用いられる巨大なシステムであった。その数年後、日本ビクターにより、回転2ヘッドヘリカルスキャン方式が開発されたが、この方式は2インチVTRAVTRより、コンパクトにまとまり、特殊再生も可能であることから、各社は、一般業務用(当時は工業用とも呼んだ)、民生用途に、この方式オープンリール式のVTRを発売するが、方式はバラバラであった。[[松下電器産業]]・[[日本ビクター]]・[[ソニー]]などは、統一1号方式という共通規格で互換性を模索していた。そのほか赤井電機では、1/4インチテープを用いた小型ポータブルVTRの開発に注力し、セールスで一定の成功をおさめていた。昭和46年、前述の3社は、家庭用も見据え、テープがカセットに収められたビデオレコーダー(VCR)の統一規格([[Uマチック]])に合意した。しかし、高価で、装置が大きなこと、テープが高価なことなどから、オープンリール式と同様に企業の研修用途、教育機関、旅館/ホテルの館内有料放送などへの販売に留まっていた。なお、Uマチックは、その後、タイムベースコレクターの開発により、放送用のENG機材として活路を見出すことになった。
 
本格的に普及する家庭用VTR機器を狙い、各社が開発にしのぎを削っていたが、ソニーが先行して、昭和49年、[[ベータマックス]]を発表した。その構成は、Uマチックビデオをスケールダウンした、Uローディング方式を基本として、輝度信号記録にテープを有効的に使用できるアジマス記録、色信号の漏話の低減するPIカラー方式からなっていた。録画時間は、あまり深く検討することなく、Uマチック同様の最長60分の録画時間とされたが、後の回想録では、ソニー会長の井深大氏が、60分でいいだろうと述べたことから、決まったとされている。
 
一方で、日本ビクターでは、当初から家庭用として開発を進め、廉価なシステム、小型化、生産効率の良さなど、民生用途としての実用性を重視した。カセットが若干大きくなることを承知で録画時間を最長120分として基本規格を開発したが、ローディング方式は、パラレルローディング(Mローディング)を開発することで、システムとしてはベータより小型化が可能であった。なお、テープの記録フォーマットはVHS規格として定められているが、ローディング方式はVHSの規格では制限されず、極端に言えば、UローディングのVHS方式でも、かまわないことになる。
 
カートリッジを用いるビデオとして、その他に、Vコード、VコードⅡ方式が製品化されていたが、これらはテープの無駄が大きい、ガードバンド記録方式であり、家庭用の主流とはなりえない規格であった。
 
先に発表・発売されたのはソニーのベータマックス(1号機・SL-6300)で[[1975年]](昭和50年)[[4月16日]]に発表、同年[[5月10日]]に発売され、交流1モーター方式という独特な設計で、コストダウンにも注力されていたが、重く、大きなセットであった。
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ビクターの親会社の松下電器産業(現:[[パナソニック]])は、[[1973年]](昭和48年)に[[オートビジョン方式]]の家庭用VTR機器を発売したが失敗したこと<ref>{{PDFlink|[http://www.ritsbagakkai.jp/pdf/455_09.pdf 岩本敏裕『VTR産業の生成』]}} [[立命館大学|立命館経営学]] 第45巻 第5号 [[2007年]]([[平成]]19年)[[1月]]<br />[http://www.toyo.ac.jp/rcm/sympo6-osone.html 第6回シンポジゥム『研究開発と企業競争力』/ 大曽根収「VHS世界制覇への道」] [[東洋大学]]経営力創成研究センター [[2006年]](平成18年)[[7月8日]]</ref>、[[1974年]](昭和49年) - [[1975年]](昭和50年)に子会社の松下寿電子工業(現・[[パナソニック ヘルスケア]])が開発した[[VX方式]]のデッキを販売していたこと、さらにベータ方式を支持する社内意見もあるなど、いくつかの要因が重なった社内事情により松下の態度は不鮮明とされていた。
 
同社のビデオ事業のトップは、ある高橋氏、VX方式をビデオ戦略の中心としていた。その理由は、VX方式は、1ヘッドヘリカルスキャンであり、生産コストが極めて低廉に押さえられること、ヘッドがカートリッジ内に収まる設計であることから、ローディング機構が省略できることが大きな理由であった推察される。そのような中、昭和50年にはVHS方式の開発が終了した。当時、ビクターの常務取締役には、親会社の松下電器からH常務が出向しており、両者の間には緊密な関係があったが、前述の高橋氏は、ビクターがVHSを開発した報を聞き、ビクターを訪問しVHSの試作機を見たとされている。昭和50年9月3日には、松下幸之助氏自身が、ビクター横浜工場を訪れ、VHS試作機を見学し、「ベータマックスは100点満点の製品だ、しかし、このVHSは150点だ」と言ったとされている。
 
一方で、「VHSの父」と呼ばれる[[高野鎮雄|高野鎭雄]]が[[松下幸之助]]に直訴。[[1976年]](昭和51年)末、松下本社で幸之助、松下、ソニー、ビクター各社社員ら出席し、両社のビデオデッキを見比べる会議(直接対決)が開かれ、その席で幸之助は「ベータは100点(満点)、しかしVHSは150点。部品点数が少ないので(VHSは)安く造ることができ、後発組に有利」と見解を示した<ref name="SonyHistory-2" />、という記載もあるが、NHK、プロジェクトX、第2話の放映内容では、昭和50年9月3日、松下幸之助がビクター横浜工場を訪れて、試作機を前に発言したとなっており、その時VHS試作機を見入る、松下幸之助氏の写真も放映され、松下幸之助氏は、この時点でVHS採用の決意があったと思慮される。[[経済産業省|通商産業省]]が規格分裂に対し難色を示していたこともあり、新規格での規格統一も提案したが両社とも自社規格を引っこめる気がないために幻となり、松下はVHS方式への参加を決めた。幸之助がVHSを選んだ決め手になったのは前述に挙げた理由の他に、VHSデッキのほうが軽かったこともあった。「ベータだと販売店の配送を待たなければならないが、VHSはギリギリ持ち帰れる重さで、購入者が自分で自宅に持ち帰りすぐ見られる」といった幸之助らしい基準だった<ref>[http://news.mynavi.jp/news/2015/11/13/466/ さよならベータ!日本の黒物家電を変えたVHSとの「ビデオ戦争」の顛末]</ref><ref>[http://bizacademy.nikkei.co.jp/top-management/resume14/article.aspx?id=MMAC4i002030092015&page=2]</ref>。
 
[[1977年]](昭和52年)には松下電器産業が普及型のVHSビデオデッキ「[[マックロード]]」を発売し、VHSヒットのきっかけにもなった。
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1972年に松下電器のビデオ事業部長になった[[谷井昭雄]](元社長)によると、VHS普及の最大の山場は1977年2月の[[RCA]]との提携だった。条件がついて8月の出荷までに録音時間を2倍の4時間にすることも求められた。[[村瀬通三]](元松下電器副社長)などの技術陣が達成した<ref>「どん底事業部、世界一を生み出す」日本経済新聞2014年11月13日夕刊14面</ref>。
 
当初、VHSの音声トラックはテープの隅に固定ヘッドで[[モノラル]]録音するものだったが、その幅は[[コンパクトカセット]]より狭く、テープスピードも1/2以下だった。3倍モードではテープスピードが標準モードの1/3になり、S/N比の劣化(ヒスノイズの増加)および[[ワウフラッター]]の増加によりさらに音質が悪化。上位機種では音声トラックを[[ステレオ]]化していたこともあり、各メーカーでは少しでも高音質化すべく[[ドルビーノイズリダクションシステム]](ドルビーB)、[[dbx]]などの音声信号の圧縮伸張処理技術を採用していたが、S/N比の劣化に対しては若干の改善が見られたもののワウフラッターには対応できなかった。現在、その時代のノーマル固定ヘッドでステレオ再生可能なデッキを持っていないと、ノーマル音声でステレオ録音されたVHSテープをステレオで聴くことは当然だが不可能である。更に問題なのがノーマル音声トラックに二ヶ国語の洋画を録画した場合であり聴くに耐えることは難しいこととなる。当然のことながらスピーカーの左右バランスを調整しようが解決することは素人では全く不可能である。それは、ベータマックスでも同様であった
 
[[1983年]](昭和58年)[[4月]]にソニーがステレオハイファイ音声記録方式(Beta hi-fi)を採用した「SL-HF77」家庭用1/2インチビデオとしては世界で初めて発売したのに対抗し、同年[[5月]]には松下電器が音声専用ヘッドを搭載し、磁性体への深層帯記録を使用したハイファイステレオオーディオ機能を追加した「NV-800」を発売。この機能はVHSHi-Fiステレオ標準規格として採用され、同年秋にはビクターから、初めて正式にVHSHi-Fi規格に対応した「HR-D725」が発売されている。なお、このD725などの機種には前述のノーマル音声方式での録再も可能でドルビーBにも対応していた。[[ダイナミックレンジ]]は当初80dB以上、[[1986年]](昭和61年)以降の機種では90dB以上に向上した。[[周波数特性]]は20 - 20000Hz。これにともない、ノンハイファイのステレオ機器は[[1980年代]]には生産終了した。国内メーカーによるノンハイファイのモノラルVCRは単体機は[[1990年代]]後半に生産を終了{{要出典|date=2013年9月}}。[[テレビデオ]]はしばらくノンハイファイ機の生産が続いたが、2000年代初頭には終了した。
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1992年に高野鎮雄が68歳で死去したとき、普及台数は3.7億台であった。
 
2006年、世界最大の電気・技術者の団体であるIEEE(The Institute of Electrical and Electronics Engineers. Inc)は、歴史的な業績を残した製品に与えられる「IEEEマイルストーン」として、日本ビクター株式会社が開発したVHS方式のビデオデッキを認定した。本邦では、八木アンテナ、富士山頂レーダー、東海道新幹線、クオーツ時計、シャープの電卓に次ぐ認定である。
 
[[2008年]](平成20年)に初代VHSデッキHR-3300が[[国立科学博物館]]の定めた[[重要科学技術史資料]](通称:未来技術遺産)の第0020号に登録された。
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** 通産省を舞台とした日本ビクターへの圧力がああり、ソニーが、VHSの開発費用をビクターに支払うかわりに、VHSの発売を中止するように求めた とされている。真面目な技術者への脅しともとれる、この経緯は、1970年代にはすでに関係者の間で広まり、映画、「日はまた昇るでも」、この経緯が登場 する。このような姿勢に対し、1999年4月に放映された、VHS開発を扱ったNKHプロジェクトXでは、日立、シャープ、三菱電機の当時のビデオ担当部長 が、真面目に規格を広めようとするビクターの姿勢を評価している。
* ビデオソフトメーカーは、[[1989年]](平成元年)頃まではVHSとBetaを併売していた(一部メーカーは8㎜ビデオソフトも供給)。Betaファミリーが崩壊し各社がVHSへと移行。ソニーも1988年(昭和63年)にVHS/Beta/8㎜ビデオデッキを併売するようになり、Betaは市場シェアを徐々に落として行った事からビデオソフトメーカーはビデオソフトをVHSのみで発売するようになり、レンタルビデオ店でもVHSが標準となった。家電量販店などでもビデオデッキはVHSやS-VHSが主流となった。より高画質を求めたBetaユーザーはBetaソフト供給打ち切り前後を境に[[レーザーディスク]](LD)へと流れて行った。
* 1983年、毎日新聞は、「ベータに敗色」という記事を掲載した。
* ベータ規格主幹のソニーによる広告戦略の失敗。[[1984年]](昭和59年)[[1月25日]]から4日間、ソニーが主要新聞各紙に広告を連続で掲載し、見出しは「ベータマックスはなくなるの?」「ベータマックスを買うと損するの?」「ベータマックスはこれからどうなるの?」となっており、最終日に「ますます面白くなるベータマックス!」と締めくくる展開であった<ref name="SonyHistory-2"/>。これは当時の新製品を告知する逆説的アプローチだったのだが、消費者には理解されず『ベータ終了』と短絡的に捕らえ、これを機にベータ離れが加速された<ref name="SonyHistory-2"/>。
などが挙げられる。