「フセヴォロド・ムスチスラヴィチ (スモレンスク公)」の版間の差分

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その後[[モンゴルのルーシ侵攻]]が始まり、フセヴォロドは[[1223年]]の[[カルカ河畔の戦い]]に参加した。[[1238年]]に兄のスヴャトスラフの死によって、[[スモレンスク公]]となった。なお同年3月に、[[モンゴル軍]]の主力部隊が、[[スモレンスク]]から東に30kmの地点を通過している。また、『メルクリー・スモレンスキー聖人伝』{{refnest|group="注"|書名は{{lang-ru|Житие Меркурия Смоленского}}の意訳による。メルクリー・スモレンスキー[[:ru:Меркурий Смоленский|(ru)]]は、1239年に[[バトゥ]]がスモレンスクに侵攻した際に殉教した聖職者。後にスモレンスクの守護聖人とみなされた。}}は、モンゴル軍の破壊行為について伝えているが、この時のフセヴォロド(あるいは前任のスヴャトスラフ)がどのような行動をとったのかについては明らかではない。
 
[[1239年]]、[[リトアニア大公国]]の攻撃を受けた後に、[[ウラジーミル・スーズダリ大公国|ウラジーミル大公]][[ヤロスラフ2世 (ウラジーミル大公)|ヤロスラフ]]がスモレンスクのリトアニア軍を討ち、フセヴォロドはスモレンスクの支配権を回復している。これ以降のフセヴォロドに関する記述は詳らかではない。
 
==脚注==
===注釈===
{{Reflist|group="注"}}
 
===出典===
<references />