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'''肉筆浮世絵'''(にくひつうきよえ)とは、[[江戸時代]]に成立した[[浮世絵]]のジャンルのひとつ。通常、一般的に[[錦絵]]と呼ばれる浮世絵[[版画]]と区別して、[[浮世絵師]]が自らの筆で直接絵絹や紙に描いた浮世絵を指す美術用語である。<!--このように書画を描くための絹を絹本といい、紙を紙本という。-->形式上、'''肉筆浮世絵'''は[[屏風絵]]、[[絵巻]]、[[画帖]]、[[掛物絵]]、[[扇絵]]、[[絵馬]]、[[画稿]]、[[版下絵]]の8種類に分類される。また、[[ガラス絵]]、[[鏝絵]]、[[泥絵]]、[[凧絵]]なども含まれる。
 
== 概説 ==
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古代より、月次絵や[[名所絵]]、[[絵巻物]]などの添景として現実の風俗は描かれてきた。しかし、現実の中で生きる人間に焦点を絞って描かれ始めるのは、[[16世紀]]初めの[[洛中洛外図]]あたりからである。時代が下るにつれて、洛中洛外図のモチーフの中から、個々の遊びに興じる人々をクローズアップする作品が登場してくる。[[狩野秀頼]]「高雄観楓図屏風」や、[[狩野長信]]「花下遊楽図屏風」が代表的な作品である。いずれも[[狩野派]]正系の絵師であり、無落款が多い近世初期風俗画でも狩野派の絵師の関与が想定される。
 
一般にこうした近世初期風俗画の成立が、浮世絵の誕生の契機となったとされ、特に'''初期肉筆浮世絵'''と呼ぶこともある。その成立には[[岩佐又兵衛]]が大きく関与したと考えられる。制作地は[[京阪]]で、障壁画が多い。代表的作品として「[[彦根屏風]]」や「相応寺屏風」、「本多平八郎姿絵屏風」などが挙げられる。([[1615年]](元和元年)頃 - [[1680年]](延宝8年)頃)にかけて[[江戸]]に移行したものを'''肉筆浮世絵'''と呼び、初期肉筆浮世絵とは別の概念とされる。この肉筆浮世絵は、形式上、[[屏風絵]]、[[絵巻]]、[[画帖]]、掛物絵([[掛幅]]・掛軸)、[[扇絵]]、[[絵馬]]、[[画稿]]、[[版下絵]]の8種類に分類される。床の間での鑑賞という制約のもとに描かれた掛幅が圧倒的に多い。特に[[寛文]]年間を中心に流行した、一人立ちの[[遊女]]や美人を描く「[[寛文美人図]]」は、後の浮世絵[[美人画]]にも直接影響を与えていく。
 
版画が浮世絵の主要な表現手段となった[[菱川師宣]]以降においても、大半の[[浮世絵師]]は版画を創作する一方で肉筆画をも制作した。寛文12年([[1672年]])から[[元禄]]2年([[1689年]])に描かれた、菱川師宣の「北楼及び演劇図巻」(東京国立博物館所蔵)が肉筆浮世絵の初期における代表例である。浮世絵師の中には、[[宝永]]7年([[1710年]])から[[正徳 (日本)|正徳]]4年([[1714年]])頃に活躍した[[懐月堂安度]]やその門人たち、[[宮川長春]]のように、版画に興味を示さず生涯肉筆画を専門として真価を発揮した絵師も存在した。特に宮川長春は肉筆画の優位を信じ、門下の[[宮川長亀]]、[[宮川一笑]]、[[宮川春水]]などとともに肉筆画専門の一派を形成している。