「負け越し」の版間の差分

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現在の[[部屋別総当たり制]](厳密にはそれ以前の[[系統別総当たり制]])になる前の[[東西制]]の時代には、それぞれの片屋ごとに番付の上下を決めていたので、極端な場合、負け越しても番付が上がることがあった([[大砲万右エ門]]の項目参照)。
 
また、[[十両]]でも翌場所の番付の追加や番付削減の影響を受けて、負け越したのに番付が上がったというケース([[2003年]]11月場所の[[武州山隆士|武州山]]・[[若孜浩気|中尾]])、勝ち越したのに番付が下がったというケース([[1967年]]3月場所の[[前田川克郎|前田川]])も過去には存在するした
 
===全敗===
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'''幕内'''
 
15日制になってから、15戦全敗を経験した力士は幕内では[[桂川質郎|桂川]]、[[清ノ森政夫|清勢川]]、[[佐田の海鴻嗣|佐田の海]]、[[板井圭介|板井]]の4人。やはりいずれも現役末期に記録したものであることが多く、桂川と板井は全敗の翌場所、佐田の海は翌々場所で引退した。清勢川(全敗の翌場所から清乃森、のち清の盛)はその後20場所十両で現役を続けたが幕内には返り咲けなかった。[[1991年]]7月場所の板井を最後に15戦全敗者は出ていない。
 
これとは別に1950年1月場所の[[五ツ海義男|五ツ海]]と[[2002年]]7月場所の[[旭鷲山昇|旭鷲山]]が1勝14敗で1勝は[[不戦勝 (相撲)|不戦勝]]によるもの、つまり皆勤して自力勝利がないという記録を残した。
 
[[豊真将紀行|豊真将]]は[[2009年]]5月場所に初日から14連敗して18年ぶりの全敗の危機となり、千秋楽に[[嘉風雅継|嘉風]]を下して事なきを得た。また、[[大道健二|大道]]も[[2013年]]7月場所で初日から14連敗したが、千秋楽に[[富士東和佳|富士東]]を下して事なきを得た。その豊真将は[[2014年]]3月場所に十両で初日から14連勝したが千秋楽に敗れるという逆の経験記録ており、奇しくも千秋楽に豊真将を倒したのは大道であった。
 
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1場所15日となる前にも全敗の記録は存在する。
 
*[[1919年]]5月場所で新三役(関脇)の[[藤ノ川雷五郎]]が10戦全敗に終わっている。以後三役に返り咲くことは無かった。
*[[1926年]]5月場所で新入幕の[[稲ノ森勉]]が11戦全敗に終わっている。翌場所に十両に陥落し、再入以後もな内に返り咲くことは無かった。
*大関[[鏡岩善四郎|鏡岩]]は小結だっに在位した[[1934年]]5月場所11戦全敗を記録している。幕内全敗経験後に大関まで昇進([[1936年]]5月場所後)した非常に珍しい例である。
*横綱[[玉錦三右エ門|玉錦]]が現役死した直後の[[1939年]]1月場所には玉錦[[横綱土俵入り|土俵入り]]で[[露払い]]を勤めた[[土州山好一郎|土州山]]と[[太刀持ち]]を務めた[[海光山大五郎|海光山]]がともに全敗(当時13日制)して引退した。
*[[1947年]]11月場所で[[名寄岩静男|名寄岩]]は歴代大関でただ1人在位中に全敗(当時11日制)を記録(翌場所関脇に陥落)した。
*[[伊勢ノ浜寅之助|灘ノ花]]は[[春秋園事件]]から復帰し幕内格別席にあった[[1933年]]1月場所で11戦全敗を記録した。その2年後の[[1935年]]1月場所では十両で11戦全敗を記録した(この場所で[[引退]])。幕内・十両の両方で皆勤全敗を経験した珍しいケースである。
*[[出羽湊利吉]]は[[1944年]]5月場所で10戦全敗を記録したが、それより前の[[1939年]]1月場所では全勝優勝(当時13日制)しており、2018年現在、幕内で皆勤全勝・全敗の両方を経験した唯一のケースとなってい力士である。
 
====幕下以下の全敗====