「集団就職」の版間の差分

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====退潮と終焉====
昭和40年代まで続いた[[高度経済成長]]期から[[安定成長]](昭和50年代)に移ると高校進学率の上昇や産業構造の変化により、集団就職は退潮するようになる。主な要因としては、以下のことが挙げられる。
;進学率の上昇
:[[1960年代]]後半以降は経済が安定し、[[所得倍増計画]]により各家庭の所得が増加したことや[[1969年]](昭和44年)の[[第32回衆議院議員総選挙]]で高校の[[義務教育]]化を政治公約にした[[日本社会党]]<ref>[[1969年]](昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙の選挙公報(日本社会党の政治公約)</ref> や「15の春を泣かせない」をスローガンとする高校全入運動の取り組みもあり、低所得層には[[奨学金]]を給付することで高校進学率が上昇し、高卒労働者が中卒労働者を上回った。[[新人類]]世代が進学する頃には高校進学率が高くなったため、中卒者が即戦力とされた技術職は工業高校などの高卒労働者や[[外国人労働者]]が担うようになった。[[鉄道空白地帯]]の解消など、[[公共交通機関]]の整備も高校進学率の上昇に拍車をかけた。例として[[岩手県]][[大船渡市]]旧[[三陸町]]域では1960年代まで公共の交通機関は路線バスしかなく、町内に高等学校のない同町の1969年(昭和44年)の高校進学者は約5割に留まっていたが、[[1970年]](昭和45年)には[[日本国有鉄道]](国鉄)盛線(現・[[三陸鉄道南リアス線]])が開業した。盛線は[[特定地方交通線]]に指定されるほどの赤字路線であったが、大量輸送と速達性・定時性で優位となる鉄道路線の開業効果もあり、[[1974年]](昭和49年)には約7割に上昇した<ref>鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル別冊No.34 懐かしの国鉄列車PARTⅠ 1980~1983』p.132-133</ref>。なお、盛線は1984年(昭和59年)に国鉄から[[三陸鉄道]]へ経営転換されている。
;[[近代化]]・[[工業化]]による[[合理化]]による単純労働者の減少
:製造業では合理化の一環として工場の[[オートメーション]]化を推進させた。その結果、単純労働者の需要が減少し、それまで単純労働者としてもてはやされていた中卒者の需要が減少した。オートメーション化のため導入された機器は[[工業高校]]卒業以上の知識が必要で中卒者には手に余るものとなり、製造業界は高卒者優遇の時代に突入した<ref>時代の流れが図解でわかる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]145頁8行目~13行目</ref>。